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吉田からのメッセージ


06/7/8 (Sat)

今東京にいる。これから弘前に戻る。


ある会議にて。「日本人のアイデンティティ」「日本の伝統」・・と言う言葉が飛び交う。誰かが、「なぜアイデンティティというカナ文字を使うのか?」。確かにおかしい。そういえば、「伝統」という言葉も伝統的な日本語ではない。


北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの娘と見られているキムウンギョン(ヘギョン)さんの記者会見を見た。やはり痛々しい。
それにしても、横田さん夫妻は立派だ。ウンギョンさんに「会いに来てください」と言われれば飛んで行きたいはずだ(孫娘への思いというのは格別なものである)。しかし、拉致問題の全面解決のために自制しているのである。この点は勧告の金英男氏の家族とは対照的である。
記者会見からうかがえる横田さん夫妻は、どちらもおだやかな方のようだ。拉致さえなければ、おそらく穏やかで平和な人生を送られたのではないだろう。たまたま銀行の新潟支店の勤務になったときに娘を拉致され、それによって人生がまったく変わってしまったわけだ。
ただ、横田さんには次のように言いたい気持ちもある。
「もう自制しないで会いに行ってあげなさい。日本人の誰もそれを裏切りとは思いませんよ。そしてあなたたちが会いに行っても、日本人が北朝鮮の思惑どおりになることはありませんよ」

06/7/5 (Wed)

ランニング(ほとんど歩いているようなもの)から帰ってきてテレビを見たら、北朝鮮がミサイル発射。日本海に落ちたそうだ。

06/7/4 (Tue)

わずらわしいことはやめようと思う。そのためにいっしょうけんめいやっている人には申し訳ないとは思うが。それで、まず二つのことをやめた。

サッカーの中田英寿選手が引退声明。トップで取り上げたテレビニュースがある。号外も出たそうだ。そんなに大騒ぎするようなことか!
・・と言いつつ、引退声明をした中田のHPを見に行く。混んでいて、見ることができなかった。

06/7/1 (Sat)

昨日は、ショックなことがあった。それでも学生たちと話をして(騒いで)いるうちに元気がでてきた。
まあ、気を取り直して一つ一つ仕事をこなしていくしかない。

06/6/30 (Fri)

久しぶり(と言っても1週間ぶり)くらいに走ったが、足がうごかない。だめだ。
明日からまた出張である。月曜朝に戻る。来週は、木曜日からまた出張。


横田めぐみさんの夫と見られている金英男さんの会見を見た。
あの国で本当のことが話せる訳がない。痛々しいばかりだった。
私は、若い頃北朝鮮のことを本気で地上の楽園と思っていたことがある。
だから「韓国」を認めず「南朝鮮」と呼んでいた。朝鮮戦争もアメリカが仕掛けた朝鮮半島への侵略戦争と思っていた。
これが日本の革新勢力全体の認識だったから私もそれを鵜呑みにしたわけだ。自分の頭で考えることができなかった。恥ずかしい。

06/6/29 (Thu)

いやー、東京のあついことあついこと。立っているだけで汗が噴き出てくる。体が北国向けになってしまったのだろうか。

「音楽を学習することとはどういうことか?」。
少し整理してみなければならない。今さら何をと言われそうだが・・・


06/6/27 (Tue)

大学生らによる生き埋め事件。動機が幼稚である。被害者のほうにも責任がある。
世の中は大学全入時代に向かっている。大学はこういう学生もユーザー(顧客)として迎え入れなければならなくなるのか。そして、こういう学生の意見によって教員の授業が評価されるのか。
今は小中高校の教員も受難の時代だが、大学教員にも受難の時代が確実にやってきそうである。それも私の定年前に・・・


昨日九州から戻ってきた。少し疲れがたまっているが、明日はまた東京に出張である。
なぜか、経済産業省で会議である。


九州で、博多から熊本までを「リレーつばめ号」という特急列車に乗った。今、九州新幹線が「新八代−鹿児島中央(旧西鹿児島)」間で開通している。この新幹線の列車名が「つばめ」であり、まだ新幹線の開通していない「博多−新八代」間をつなぐ在来線の特急が「リレーつばめ号」である。リレーつばめ号は新八代までしか行かないのだが、行き先は「鹿児島中央」行きである。この「リレーつばめ」と「つばめ」を乗り継ぐと、「博多−鹿児島中央」間が2時間10分、全線新幹線が開通すると1時間20分で移動できるようになると言う。
私たちが、子どもの頃は、鹿児島というのは私の生まれた福岡からはずっと遠いところだった(だから、いまだに鹿児島県には入ったことがない)。しばらくはなれている間に九州が狭くなった。
それに比べると東北はある意味ではむしろ広くなっているような気がする。例えば、昔は弘前−山形間には奥羽本線を通る直通列車があったのだが、今は新幹線のおかげでかえって不便になっている。東京との距離は縮まったが、地方間の距離は拡がる一方である。

06/6/26 (Mon)

今九州にいる。今から飛行機で青森に帰る。
一昨日、昨日と九州の仲間たちの研究会に出席していた。小中高校の先生たちだが、とにかく元気な人たちである。つられて、自分も元気になった。
元気をたくさんもらってみんなと別れたのだが、あとがいけなかった。
九州は大雨。久留米付近で雨がひどく、大牟田駅で1時間ほど列車が止まって足止め。もうこんなとこ、くるめー。

ところで、これを書いているのはホテルロビーのパソコン・・・・10分100円・・・少しあくどいくない?


06/6/24 (Sat)

教育学部に「小専科学実験」という授業がある。小学校教育専攻の必修科目である。
今年から、この授業に私も参加することにした。シラバスには次のように書かれている。
「実験(演習、実習、実技を含む)を通して、知識,技能を含む基礎的な実験手法を修得し,多様・多彩なアプローチの仕方を学び、来るべき小学校の実践の場において主体的,能動的に対処しうる能力・態度の育成を図る。『子どもの教育にとって,実験とはどうあるべきだろう』。具体的活動を通して考えてもらいたい。全体を6グループ(1グループ20名)に分け、グループ毎に理科・家政・技術・数学・社会・音楽・保健体育・教育保健の各講座から出された12の実験テーマに取り組む。12回の実験をすべて行い、なおかつ、それらの実験レポートを提出した学生に単位を与える」
私が担当している授業では、楽器づくりにとりくむことにした。楽器づくりに関しては、多くの本が出ているが、一番やくにたつのは、繁下和雄氏の次の本である。
・繁下和雄『紙でつくる楽器』 創和出版
この中にある、リコーダーをつくることにした。
当然? オヤジ・ギャグの連発になる。
「これ作れる人は、リコーダー」
ついでに、管楽器全体について説明する。
「木管楽器は舌のある楽器とない楽器に分かれます。舌のある楽器は、一枚舌と二枚舌の楽器に分かれます。オーボエは二枚舌です。よくオーボエときなさい」
「金管楽器の代表はトランペット、音が鳴らなかったら、ナランペット」
(この手のギャクはすべて「おやじの音楽事典」にストック?している)
素朴な学生である。だいたい5秒くらいたって笑い出す。
本当は、昨日のうちに阿蘇へ出発したかったのだが、この授業が昨日の最後の時間にあり出発を断念した。そのため、開幕のT先生の貴重な基調講演がきけない。大学の校舎の出口で、同僚の先生に会い、「明日阿蘇に行く」と言ったら、「あっ、そう」と言われた。
というわけで、今から九州に出発する。九州の先生たちは勉強に熱心である。たくさん吸収してきたい。

元大関北天佑の二十山親方が死去。好きな力士の一人だった。まだ、若いのに残念。

奈良の放火殺人事件で逮捕された長男は「0からやり直したかった」と供述しているそうだ。
人を殺しても、自分が死んでも、やりなおしはきかないのだ。こんな単純なことがどうしてわからないのか。

06/6/23 (Fri)

今日は4時起き。
たかがサッカー、3つ負けたくらいで大騒ぎするな!

訂正。2つだった。

06/6/22 (Thu)

NHKテレビ、昨日夜7時30分の「クローズアップ現代」は「悩める教師・早期退職の裏側」。
定年を前に、ベテラン教師の退職があいついでいるという。退職者の半数以上が定年前のところもあるという。
学級崩壊、多忙化で声も出なくなった教師、自己中心的な保護者への対応で体が動かなくなった教師の事例が紹介されていた。
教師に対しては社会の厳しい評価が向けられている。また、学校内でも、毎週指導案の作成を迫られるなど自分の行動がしばられる。
本当に教師の受難時代である。
しかしここに出てきた事例は、校長がきちんとリーダーシップを発揮すれば解決できたのではないのか。
少なくとも保護者に対しては、学校として毅然とした態度がとれるはずだ。また、多忙さに関しても学校の内部で調整がきくはずだ。
校長のリーダーシップの問題が取り上げられていなかったのは残念だ。
教育委員会の人が出てきて「変化に対応する力をつけるべきだ」などと、他人事みたいな言い方をしていたのには腹が立った。行政というのは、本来は現場をサポートするべき立場にあるのに、現場に過大な課題をおしつけ、しめつけることばかり考えるようだ。
最後のほうで日本教育大学院大学が紹介されていた。河上亮一教授(プロ教師の会の会員で、私でも名前を知っている有名な実践家)の「教師は課題をしぼるべきだ」に共感しつつ、この大学院大学のあり方に違和感を感じた。この違和感の正体は何だろう。


ひねくれ教育事典 【け】
けいかく(計画) 計画というのは、たいていは3日くらいで倒れるものである。私は、子どもの頃からおとなになるまで実現不可能な計画ばかりたててきた。
・毎日3時間はピアノの練習をしよう。
・毎朝、英会話を勉強しよう。
・文章を一日に原稿用紙10枚分は書こう。
・授業の準備に授業と同じ時間はかけよう。
・部屋を毎日掃除しよう。
・毎日歯を磨こう。
・ゴミをすてよう。
・てきぱきと仕事をかたづけよう。
・この人と一生
計画倒れもはなはだしい。
ただし、遊びとなるといくらでも続けられるからおもしろい。
・毎日10キロ走ろう・・・いつも書いている通りである。
・毎日酒を飲もう・・・30年以上も続いている。
と言うわけで、いつしか計画を立てるのをやめた。そのおかげで、かなり行きあたりばったりの人生になっている。
この、メッセージも「極力毎日更新」と言いながら、かなりいい加減で時々見えなくなる。

06/6/21 (Wed)

山口県光市の母子殺人事件で、最高裁判決が出た。差し戻し判決だが被告には厳しい判決だ。
遺族の本村さんの心情を思うと、最高裁に結論を出してほしかったとも思うが、やはりもう一度高裁に判決の見直しを迫ったことは妥当だろう。
死刑制度は重たい問題である。私自身、廃止論と存続論の間を揺れ動いてきたが、現状では死刑制度廃止には反対である。
自分の近辺にいる人がそのような目にあえば、当然死刑を望むだろう。もっと身近な肉親であれば、自分で復讐するか、だれかプロの殺し屋を雇って復讐するかを考えるだろう。現実にこの間そのような発言をしていた遺族がいた。これを現実化しないためには死刑制度が必要である。


弘前大学教育学部では、Tuesday実習(恒常的実習)というのが今年度からはじまった。3年次生は、火曜日の午後、附属学校に行って実習する。実習期間中に集中的に行うのではなく、毎週火曜日に行うからTuesday実習である。附属小学校の場合、前期は観察実習である。とにかく教室に行って、目に見えたこと、耳に聞こえたことを記録する。あとで、グループで集まってそれについて報告し討論する。大学教員もついていくが、報告・討論の運営はすべて学生が行う。まだ、問題点は多い。しかし成果が少しずつ出てきている。なによりも学生の目つき、顔つきがしっかりしてきた。日頃の授業でもこのくらいの顔をしてくれればよいのだが。

06/6/20 (Tue)

世間は狭い・・ということに気づいた次第。詳細はいずれ・・・

学生に、
「孫が生まれた。会いに行きたいが、遠くにいるので行けない」
と言ったら、
「どうぞ、ゆっくり行ってきてください。授業はいくら休んでも大丈夫ですから」
と言われた(^^; 心優しさに、涙が落ちそうになった。
今年入学した学生で一番若いのが、昭和63年4月1日生まれ。もう自分の子の世代よりも下になる。雰囲気もずいぶんかわってきた。・・・というのは錯覚で、自分が年をとったので若い人を見る目が変わっただけだという説もある。
来年は、いよいよ平成世代が入学してくる。
そのうち「昭和は遠くなりにけり」になるだろう。その時まで生きているかどうか。

このところ本を読む時間がない。研究の時間もとれない。

・・・と私は愚痴ばかりこぼしているのに
同僚のピアノのA先生(別に伏せ字にする必要もないのだが)。
今年度1年間で、10回に分けてベートーベンのピアノソナタの全曲演奏会をされる。
私より少しお若いだけなのにすごい気力だ。また学内でも要職に就いておられる。
パンフレット
すごいことだ。

06/6/19 (Mon)



アルトサクソフォン用消音器《e-Sax》。開発にあたって、S大のK先生が試奏評価アドバイザーとして協力したそうだ。サックスは大きな音が出るので練習場所で苦労している人には必需品になるかも知れない。写真のような言わば防音ケースがこのe-Saxである。防音室を作るのは大変なので、楽器だけを防音室に入れてしまおうという発想か? 上のほうからマースピースの部分が出ている。また、左右の腕を入れるための穴があいている。穴の部分は弾力性のある樹脂のようなものでできていて腕を入れたときに腕のまわりに隙間ができないようになっている。
このe-Saxを身近な人間が持っていたので吹いてもらった。確かに音量が半分くらい(?)に落ちる。これなら住宅地で練習しても大丈夫だろう。この音量が小さすぎると感じる人は、中で出ている音をイヤホンで聴くこともできる。使っている人によると、まだ難があるということだ。一つは手首が固定されるので運指が不自由だということ、もう一つは吹いていると息苦しくなるということだった。そのへんは仕方ないことなのだろうが、まだ改良の余地はあるのだろう。詳しくはこちら

ワールド・カップ
限りなく・・・・おわり

指揮者、岩城宏之の追悼特集、N響アワーではやらなかったが、NHK総合で特別番組をやっていた。サッカーの試合と重なったので最後少ししか見ることができなかった。また、やるだろうから、次のは見逃さないようにする。

06/6/15 (Thu)

私が参加させてもらっているあるMLで、今の大学生が童謡を知らないということが話題になっている。「かなりや」「くつがなる」など、大学院生でも知らないと言う。実はその理由ははっきりしている。
小学校学習指導用要領の音楽の「指導計画の作成と各学年にわたる内容の取扱い」に次のような一文がある。
「歌唱教材については,共通教材のほか,長い間親しまれてきた唱歌,それぞれの地方に伝承されているわらべうたや民謡など日本のうたを取り上げるようにすること」
まず共通教材はほとんどが「唱歌」である。そのほかに「長い間親しまれた唱歌」なのだから童謡の入る余地はない。「長い間親しまれた唱歌や童謡」としていれば、少しはちがっていたかもしれない。
ところで、唱歌と童謡を混同している人がいるが、両者はまったく異なる。戦前に「唱歌」という教科で歌われていた歌が唱歌である。そのうちの文部省著作とされていたものが文部省唱歌である。童謡は、唱歌に反対する立場から民間で生まれたものである。つまり「唱歌は官製、童謡は民間」と言ってよいほど明確な線引きがされていたのである。ただし、これは戦前の話である。戦後になると童謡も教科書に掲載されていた。しかし、昭和33年の共通教材の登場によって唱歌が大量に復活し、童謡は教科書から消えて行くことになったのである(これは数字的にきちんと調べたいと思っている)。
私は、共通教材を続けるなら、その中に童謡も含めたほうがよいと思っているのだが。


ひねくれ教育事典 【く】
くうき(空気) ある集団や社会を支配している不思議な気。日本社会ではこの不思議な気を読めなければ生きていけない。会議の時には、多数決をとらなくてもこの空気によって方針が決められる。全体の空気と異なった意見を言う人は、ほめられるどころが、あいつは空気が読めないと言って嫌われたり、仲間はずれにされたりする。「おとなになりなさい」と訳の分からないことを言われることもある。それも小さな社会ならよいのだが、国家の方針までなんとなく空気で決まったりする。あの戦争も空気が生み出したのかもしれない。

06/6/14 (Wed)

指揮者の岩城宏之氏が亡くなった。
おそらく名前を一番最初に知った指揮者だと思う。
私がクラシック音楽に少し興味を持ちはじめ、テレビで音楽番組を見たときにNHK交響楽団の常任指揮者として「棒を振っていた」のが岩城氏だった。だから、私がこれまで聴いてきた管弦楽曲の初聴(こんな言葉あるか)は、岩城氏の指揮によるものが多いのではないだろうか。
私が少年の頃にテレビで見た岩城氏は丸々と太った元気なおじさんだったが、晩年はずっと病気がちだったらしく痩せこけていた。
あとで知ったことだが、決して指揮者として国際的に高い評価を受けていたわけではないようだ。録音もあまり残っていないので、どんな演奏だったかと言われても思い出せない(今度の日曜のN響アワーは追悼特集かな? さすがに池辺さんのだじゃれはないだろうな)。しかし、私にとって思い出の深い指揮者の一人である。
この岩城氏の残した著作の一つに『楽譜の風景』(岩波新書・1983)がある。この本の最後のほうに、氏自身の音楽教育に体験について「白状」した部分がある。その一部だが、おもしろい記述がある。
「ぼくが初めて知った楽譜は、数字だけで書いてあるハーモニカの楽譜だった。だがあれだと、どんな曲でも1ではじまって1で終わるのだ。つまりなんでもハ長調になってしまう。イ短調の時もあるけれども。だからぼくは「軍隊行進曲」も「ドナウ川の漣」も、みなこの方法でやった(吉田注・岩城氏が最初に与えられた楽器は、派生音の出ないおもちゃの木琴だった)。
足がよくなって(吉田注・左足に骨の病気があったらしい)、最初に街に出たのが空襲の合間の銀座だった。この二つの曲の本物の楽譜が買いたくて、父につれて行ってもらった。
ピアノ用の本物のピース楽譜では、「軍隊行進曲」は「レ」で始まっていた。だがぼくはそれを一生懸命読みかえて、「1」つまり「ド」から始めたのだった。後にいろいろな楽譜を手に入れて、いずれもハ長調に読みかえてやっていたが、どの曲もみんな同じ「ド」で始まり、「ド」で終わるというのは、退屈なような気がした。「ミ」で始まる曲は、おたまじゃくしのようにやってみようかと試みた。半音をたくさん使わなければならないようになり、ずっと難しくなったが、新鮮な響きがした」
この話をおもしろいと感じる音楽教育関係者はどれくらいいるのだろうか。実は現代の音楽教育の問題に通じる重要な問題が含まれているのだ。
私の本棚にある岩城氏のその他の著書。
『フィルハーモニーの風景』(岩波新書・1990年)。こちらは日本エッセイストクラブ賞を受賞した。
『指揮のおけいこ』(文春文庫・2003年)。これもおすすめである。
ご冥福を祈りたい。合掌!


ワールドカップ・・気をとりなして皮算用

オーストラリア 3−1 日本
ブラジル 1−0 クロアチア
ここまで確定。以下予想(期待)
ブラジル 2−0 オーストラリア
日本 1−0 クロアチア
クロアチア 2−1 オーストラリア
日本 1−1 ブラジル(ブラジルは先に勝ち点6をあげており、ジーコへのやりにくさもあってゆるむ・・んなことはないか)
最終成績
ブラジル    勝ち点7
日本      勝ち点4
オーストラリア 勝ち点3
クロアチア   勝ち点3
というわけで、日本は本戦へ・・・おそらく熱烈なサポーターは心の中でこんな計算をしているのだろう。
でも、こうやって書いてみるとありそうだと思いませんか。Never give up! Nippon

06/6/13 (Tue)

1-3 残念!
ジーコジャパン・・・強運も使い果たしたという感じだ。
しかし、野球のWBCみたいなことが起こらないとも限らない。 
まあ、無理だろうね。
(書いてることが支離滅裂のようで)

06/6/12 (Mon)

かなり足につかれがたまったので、ランニングはお休み。ランニングをしないと脳みその働きも悪く、文もすらすら出てこない。
だから、今日はこれでおしまい。

ニュースを見ている。
秋田の小学生殺人事件。弘前から電車で1時間くらいのところで起きた事件である。
殺人の動機は? まだまだ不明だが、私はある恐ろしい推測をしている。あまりにおぞましいので誰も口には出さないが、100人中99人が同じ推測をしているはずだ。

06/6/11 (Sun)


弘前市の公園にはこんな看板が立っている。
どうもこの看板は役には立ってないようである。
だって、犬・猫はこの字読めないものね。
だから、朝の公園は犬でいっぱいである(猫はいないから、猫はひょっとしたら読めるのかも知れない)。
犬が字読めないだけならいいが、飼い主さんも皆読めないらしい。
飼い主さんのおつむの中も犬なみなのでしょうか。

今、午後3時50分、大学に来て仕事中・・・ちっとも進まない。ちょっと一休み・・・進まないのに一休みばっかりしていると、ただ休んでいるだけになる。下のほうから、ベートーベンのピアノコンチェルトの1番を練習している音が聞こえてきた。いい曲だなあ! はやく仕上がらないかなあ。


ひねくれ教育事典 【き】
きみがよ(君が代) 国旗及び国歌に関する法律。1999(平成11)年に制定された。その第二条。「国歌は、君が代とする。君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二の通りとする」。そしてこの別記第二には「君が代」の五線譜が示されている。すごいことだ。何がすごいかって? 日本国の法律に歴史上はじめて五線譜が掲載されたのである。つまり五線記譜法を国家が正式な記譜法として認知したことになるのだ。

06/6/10 (Sat)

プライベートな雑用をかたづけないといけなかったので、昨日は午前中に年休をとった。時間があったので、ついでに散髪に行った。午後、大学に行くとたくさんの学生から「髪を切りましたね」と言われた。髪を切ったということがすぐわかるくらい、見苦しかったようだ。
年をとるごとに、スタイルとか服装にまったく無頓着になった・・・・<若いときからだろう!

朝のランニングをしていて一番困るのは、トイレ対策である。小ならなんとかなるのだが(ごめんなさい)、大の場合は大変だ。運動すると腸の働きが良くなるのだ。トイレのある場所は(公園やコンビニ)だいたいわかっているので一番近いところに急ぐわけだが、その場所がはなれていることがある。急ぎたいのだが、急ぐと出てきそうだし、急がないと間に合わなくなりそうだし・・・。例の独特のポーズで歩くことになる。今日はかなり危なかったが、なんとか弘前公園のトイレにすべりこみセーフ。出た瞬間の快感に、思わず「あーーっ」と声が出てしまった。

06/6/9 (Fri)

昨日は、「教育学の基礎」という1回きりのオムニバス授業。例?の話をする。
夕方、実習の件で少し問題があり担当の先生と話し込む。私の誤解もあり、話の上では解決したのだが、具体的にどうしたらよいかはわからない。いや、困った、困った。
夜は、開店したばかりの店に歩いて行く。しゃれたよい店だった。5キロくらいを歩いて帰った。

今朝は10キロ走る。ひさびさにアップル道路・・いやアップルロード(広域農道の一つで、道の両側にりんご園が広がる)を走る。ただ、そこを通る車が恐い。みんな仇打ちでも行くかのようにスピードを出す。人が歩いていてもかまわずわずか十数センチのところを猛スピードで走り抜けていく。津軽の人は全体として穏やかなのだが、車を運転すると人が変わったように荒くなる。

東京の人や高知の人には信じられないかもしれないが、弘前ではまだ半袖では寒い。夜は長袖シャツ一枚でも寒い。学生にはジャンバーを着ているのもいる。まだ、夏が来ていないのか。

06/6/8 (Thu)

ひねくれ教育事典 【か】
かんどう(感動) 音楽を聴いて感動する。スポーツを見て感動する。めったにないが(^^;、授業を受けて感動する。その感動を他の人と共有する。それによってさらに感動が強くなる。ついに涙がでて止まらなくなる。いいなあ!。とてもいいことだが、そういうふうに感動できない人が必ずいる。例えば、音楽の種類によってはうるさいとしか感じない場合がある。サッカーなんて退屈だと思う人もいる。だから、感動は強制することはできないし、強制してはいけない。当たり前のことなのだが、それが当たり前のこととされない雰囲気が教育界にはある。音楽の時間に、数人はしらけた顔をしている子どもがいる。教師にはそういう子どもが見えていなければならない。だが、そのことをことさら問題視する必要はない。そういう子どもなのだと放っておけばよいのだ。また別の感動のチャンスをつくってやればよいのだ。こういう意味での「ゆとり」は必要である。


昨日はどしゃぶりだったので、傘をもってバスででかけた。バスがつくころには雨がやんでいた。案の定、傘をバスの中に忘れた。まあ、安いビニール傘だからとあきらめる。・・というわけで、また井上陽水になる。「井上陽水になる」と言うジョークがわからない学生が増えた・・・最近この手のぼやきが増えたような気がする。いやー、としをとった。


言葉の行き違いか、気持ちの行き違いかわからないが・・・・たぶん私が相手の気持ちをさかなでするようなことを言ったかしたのだろう・・・、1年ほど音信不通だった人から電話がかかってきた。たいした用ではではなかった。相手にとっては音信不通だったという気もないかもしれないが、私はとてもうれしかった。長い間、のどにひっかかっていた魚の小骨がとれたような気持ちだった。

夜は組合大会に出る。
組合を去る人が多くなった。組合に入っていてもメリットがないことが一番大きい。正直言って、目に見えるメリットはない。メリットがない上に、けっこう高い組合費を支払わなければならないし(月に1回外に飲みに行くくらい)、わずらわしい役員が回ってくる(事実、まわってきた)。個人的は自分だってやめたいと思う。しかし、今組合というものがまったくないことを想像してみる。かつての国立大学時代に比べて、大学運営は学長と一部の役員の意志で進められることが多くなった。この一部の人たちが暴走した場合、だれが歯止めをかけるのか。例えば、極端な話、「給与の一律50パーセント削減」が提示されたらどうするのか。もちろんそんなことはあるはずはない。しかし、あるはずがないのは組合があるからだ。一つ一つの組合の力はとるに足りなくても、背景に組合運動が存在するからである。「給与が一律50パーセントも削減されることはない」という暗黙の常識は、組合運動があったからこそ形成されたのである。
東北の大学では、給与が5%削減されることになった(50%削減はなくても5%は現におきているのである)。我が組合は、これを止めることはできなかった。それでも少しは歯止めをかけている。仮に管理職の職員を除く職員の90%が組合員であれば、おそらく1%も削減できなかったであろう。
私は、組合の方針のすべてに賛成しているわけではない。とくに政治的な部分には、???が多い。私は、この???の違いは組合をやめるほど大きな問題ではないと思っているのだが、仮にこの???が組合への加入を妨げているのなら、これを見直したらよい。
私は、どんなに少数になっても組合は必要だと思う。逆の場合もある。職員の90%が組合員の場合もあるかもしれない。その場合組合に反対する人は絶対に必要である。そうしなければ、今度は組合が一つの権力になる。そんな例はいくらでもある。いずれの場合でも少数派は必要なのである。ただし、できれば少数派でいるより多数派でいたい。

06/6/7 (Wed)

ひねくれ教育事典 【お】
おんなとおとこ(女と男) ジェンダー。この点に関しては、私は保守中の保守である。最近は、男女混合の名簿を作成する学校が増えてきた。教師が児童をすべて「さん」づけする学校も多い。大学でも、学生の名簿から性別をはずそうという動きもある。私は、ばかげたことだと思っている。男が女より優れているなどとは思わない。天皇が女でもいい(なくなってもいい)。男女は平等である。いや、女男は平等であると言ってもよい。しかし、女は女、男は男である。女と男の区別がなくなってはいけない。ついでに言えば、女男別姓も反対である。女が姓を変えたくなければ、男が姓を変えたらいい。夫婦は同じ姓を名乗るべきだ。そう言えば、最近古いEP盤を手に入れた。さだまさし「関白宣言」。・・・おれより先に寝てはいけない。おれより後に起きてもいけない・・・。うーん、いい歌だ。男はこうでなくっちゃ・・???????


「かなりやはどのくらい歌うの?」「かなりや」
こんなギャグが通じなくなった。理由がわかった。大学院の授業で、大正期の童謡運動について学習しているときに「かなりや」(西条八十作詞、成田為三作曲)が出てきたのだが、院生たち(1983年頃生まれ)がこの歌を知らないと言うのだ。もう、童謡自体がほとんど歌われなくなっているのだ。歌っているのは安田姉妹くらいか。「七つの子」は「からすの勝手でしょう」が本当の歌詞だと思っていたのもいる。戦前の歌のうち「唱歌」は一部が小学校共通教材になっているので残っているが、童謡は消えてなくなりそうだ。次期学習指導要領で「共通教材」を残すのなら、その中に唱歌ばかりでなく童謡も入れる・・・って言うのは、どうよ!
 

5日の記事について補足しておく。いろいろ意見をいただいている。
私は、中学校や小学校の教員が中学校や小学校で授業をしては絶対にいけないと言っているのではない。個別に見れば、いろいろな教員がいる。現に私たちの同僚の中には、元小学校や中学校の教員であった人たちがいる。また、ゲストブックで石原氏が書いているように大学教員になるまでの間、アルバイトで中学校や高校の非常勤講師をしていた人もいる。こういった小学校や中学校の教員の経験が教員養成教育に生きている。
私が、問題にしているのは、大学の中にある・・・そしてひょっとしたら小学校や中学校の中にもあるかもしれない・・・大学の教員は小学校や中学校の教員を育てているのだから、小学校や中学校で授業ができて当然、あるいは授業ができなければならないというようなおかしな常識があることである。つまり、こういうことが、一部で常識化しつつあることを批判しているのである。
教員養成学部の附属学校は教員養成に欠かせない機関である。二つの機関は協力しあって教員養成教育にあたらなければならない。紆余曲折しながらも全体としては我が弘前大学の教育学部では良好な協力関係ができつつある。しかし、このような協力関係が壊れて行くことを懸念しているのである。

今日は10分ほど走ったところで雷が鳴り始める。あわてて家に戻ったところでどしゃぶりになる。さぼる理由ができた。

06/6/6 (Tue)

火曜日は1限目の授業が大変なので、早めに大学に行く。だから、朝のランニングは軽め。今日は約4.5キロ。
午前中は二コマ授業。午後はTuesday実習のため、附属小学校で半日を過ごす。附属小学校と宿舎は同じキャンパスの中にあるので、帰るのは楽だ。
Tuesday実習とはなんぞや? こういう、訳のわからん名称をつけて喜んでいるアホ・・・じゃなかった、声の大きな人がいる。
大学外の方にはさっぱりわからないと思うので、そのうちこの欄で紹介したい。

06/6/5 (Mon)

6月2日に附属小学校の中学校の公開研究会があった。I先生だけでなく、各教科で大学の教員が授業をした。
評判がいい。それはそれでよいことだ。だからといって大学の教員が、ずっと授業をしたらよいなどとは夢にも考えてはいけない。
それは研究授業という特別の場であり、1〜2回のことだから良いのである。
もちろん中学校の教師がきちんと授業の企画をし、ゲストとして招くのならよい。NHKの「ようこそ先輩」を思い出す人がいるかもしれないが、あれは、NHKのスタッフがきちんと企画し編集してつくってあるのである。あれを見て、「さすが一流の人は授業も一流だ」などと感心している人は相当おめでたい人である。
大学教員の授業は中学生にとって日常的でないから良いのである。日常的になれば、その良さは半減する。
仮に、大学の教師が日常的に授業をして、それが中学校の教師がするよりもよい授業だなどということになったら、その中学校の教師はよほどボロでありカスである。そういうことはあってはならないのである。
と思っていたら、大学の教員に日常的に中学校で授業をさせる計画があるらしい。だれかの浅知恵から生まれたのだろうが、その浅知恵が現実になろうとしているのだから驚く。中には、「それができるように大学教員は学習指導要領を勉強しよう」(勉強すること自体はよいことだが)、と言っている人もいるらしい。
まず、大学教員が、中学校で授業できると思うこと自体が傲慢なのである。さすがに教科教育を担当している人をはじめ多くの大学教員はそんなことを考えるほど馬鹿ではない。こういうことを言いだすのは教育について何もわかっていない一部の声の大きな教員である。ところが大学というところはこのような一部の声の大きな教員の言うことが通ってしまうのだ。はずかしいことである。
また、これを中学校の教員がこのまま許してしまうのなら、「中学校教師としてプライドのない人」と言われても仕方がない。「私たちの大事な生徒を大学教員ごとき素人に丸ごと預けるわけにはいかない」。こう考えるべきなのだ。こう考えないとすれば、その感覚もどうかしているのである。その点、小学校ではさすがにこのようにはならない。それだけ、プロとしてのプライドがあるのだろう。
私は、教授会だけでなく、いろいろなところでこういうことになったらいかんと発言してきた。また多くの人はこれがおかしいと思っている。それでも一部の声の大きな教員の言うことが通っていく。声が大きいからか。本当に疲れる。
・・・と私はわざと挑発しているのである。「声の大きな教員」と呼ばれたのが自分だと自覚した人は、ぜひ、反論していただきたい。
(最初の稿では「アホ」と言うふうな下品な言葉を使ってしまいました。関係者の皆様に大変深い・・いや不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません)。


もう一つ関連事項
6月2日の記事に次のように書いた。
「研究テーマは、「自らの学びを高める生徒の育成」。こういうテーマは空々しくて嫌いだが・・・」
研究会当日の全体会で、このテーマの説明があった。はっきり言って悪いが、何もわからなかった。また、まわりを見たが、熱心に聞いている人はなく、みんな、当日配られた資料の別の場所を眺めている。とりくみを進めている当人を責めているのではない。こういう無駄なことを延々と続ける学校文化を批判しているのである。
「自らの学びを高める」。そもそも意味不明である。自らを高めるのが学びではないのか。では、自らを高めることと学びを高めるのはどう違うのか。
言葉ではいろいろ説明してある(抽象的で現実の教育実践とはかけはなれるが)。まあ、それはそれでいい。
しかし、もっとわからないことがある。次のような問いを立ててみる。
 それぞれの教科で学びを高めるとはどうすることなのか?
 音楽科において「自ら学びを高める」とは具体的にどんなことをさすのか?
おそらく、次のような答えが返ってくるはずだ。
 「それを各教科の研究で明らかにするのだ」
これが本末転倒である。
こんなことが明らかになるのか。
そして、明らかにしてどうだというのだ。
教育研究(とくに実践研究)は、今目の前に解決しなければならない課題があるからこそ必要なのである。
例えば、「男子が歌唱活動に参加して来ない」「楽譜が読めない生徒がいる」「生徒の能力差が激しすぎる」・・・。こういう実態がある中で、教師は、このような問題をどう解決していくか、何を授業の課題とし、どのような計画をたて、どのように実践していくのか。研究はそのために必要なのである。それを、「自らの学びを高める」などという出口のない悠長なスローガンを押しつけられてはたまらない。
研究の大革命が必要だ。

朝、5時になった。今から、走ってくる。

06/6/3 (Sat)

昨日のI先生の授業はものすごく良かった。私も時々小中学校で授業をするが、正直言って負けた(クソー!)。I先生は音楽や音楽教育について哲学(的)な研究をしている。音楽とは何か? 芸術とは? 創作とは? 表現とは何か? これらを突きつめていく授業をつくろうすればこうなるだろう(私にはとても考えつかないが)。共有財産として授業記録の形で残したい授業だった。
T先生の授業もとても意欲的な取り組みだったのだが、「読譜・記譜をどうするのか」で課題が残った。
今の学校教育では、記譜をすることなどほとんどすることはないのではないか。ひょっとしたら、おたまじゃくしを一生の間に1匹も書かない人もいるのではないか。「記譜・読譜」についてこれから考えていきたい。
養老氏の話も期待していたよりもおもしろかった。


夜、NHKのBS「フォークの達人」は高石ともや。えらくじいさんになっていた。自分が正真正銘のじいさんなのだから仕方がないか。
でも、聞いていてジーンとなった。とくにゲストの笠木透が出てきて、「私の子どもたちへ」(笠木作詞、作曲)を二人で歌ったときは涙がでそうだった。私の青春がここにある。
 生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を
 あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは
  (「父さんは」の部分は、今なら「じいちゃんは」と歌いたい)
しかし高石と言えば、何と言ってもこれ。「おいで皆さん聞いとくれ。僕は悲しい受験生。砂を噛むように味気ない。僕の話を聞いとくれ」。「受験生ブルース」(中川五郎作詞)である。団塊の世代、受験地獄の時代の歌である。この歌がはやった頃(1968年)、私はちょうど受験生だった。
高石ともやとは関係ないが、段階の世代の人の中には、自分たちの受験時代をひきずって、いまだに教育問題の根本に受験地獄があると勘違いしている人もいる。もはやそんな時代は40年前のことなのだ。自分の青春時代を基準に教育問題を語ってはいけない。


今日は少し欲を出して、17キロほど走った。もちろん家まで残り800メートルでビールを買って飲んだ。走るわりには体重が減らない。

06/6/2 (Fri)

走りに出たが、半袖だったのでとても寒かった。よい言い訳ができたので(^^;、20分で戻ってきた。
そう言えば、昨日組合の事務所に行ったら、書記さんがストーブをつけていた。6月と言うのに一体・・・


今日は附属中学校の公開研究会。研究テーマは、「自らの学びを高める生徒の育成」。こういうテーマは空々しくて嫌いだが、まあ中身が良ければ良い。
音楽では、中学校のT先生が授業を公開するが、ボディーパーカッションによる創作活動の授業である。学部からは同僚のI先生が授業をする。
I先生は、最近舞踊にこっている。音楽と舞踊を結びつける授業を開発(この言葉はふさわしくないかも)しているそうだが、小中学生に対する実践ははじめてみるので楽しみだ。今日の音楽部会のテーマは「音楽と身体」で決まりである。おもしろい会になりそうだ。
全体講演は、あの養老孟司氏。あんまり好きじゃないのだが、とりあえず話を聞くことにするか。


06/6/1 (Thu)

・・・と言うわけで、昨晩は夜更かしをしてしまった。で、朝もなかなか起きることができず、ランニングができなかった。


最近の学生を見ていると、なんとなくにわとりに見える。顔が小さくなった(小さくみせている)からかな。そして顔は小さいほどいいそうだ。
私などは、子どもの頃から「でかいツラをするな」とよく言われた。そう言われても、生まれつきなのだからどうしようもない。
ただ、にわとりに見えるのは、顔が小さいからだけではないらしい。顎(あご)が退化しているからなのだそうだ。
・丸橋賢『退化する若者たち』(PHP新書・720円)
近年の日本人は、固いものをたべなくなった。当然顎を使わなくなる。そのために下顎が扁位する。顎が細くとがっていたり、顎そのものがほとんどなくなってくることもある。そういう顔の学生が多い。
著者の丸橋氏は、このような現象を日本人の身体の退化とする。そしてのこの退化が不登校やニートの増加、学力低下の原因にもなっていると主張する。
言われて見れば、今風の顔をした学生より、少し古風な顔をした学生のほうが賢そうに見えるのは気のせいか。
ただ、この本、最後の方はやや精神主義的で、どうかなあと思う。

06/5/31 (Wed)

10キロほど走って、帰って来たところ。冷たいビールはあるが、ウイークデーなので飲むわけにはいかない。いや一缶くらいいいんじゃない・・ともうひとりの私がささやく。いやいやだめだめ・・・。二人の私がけんかしている。


私は、ある学会(はい。あの学会です)の会則などを検討する委員をしている。文面を検討するだけでも結構難しい。
例えば
「会長は、正会員の直接選挙によって選出する」
この文の主語・術語は、もちろん「会長は・・・選出する」ではない。会長が選出するわけではないのである。この場合の「会長は」は「会長については」という意味で、この文の「題」を表しているのである。この題をあらわすという説明を「三上文法」というのだが、そう説明されてもあまりしっくりこない。やはり「○○は」は主語として使いたい(ありゃ!)。
しかし
「会員は、直接選挙によって会長を選出する」では、やはりちょっとおかしい。
「会長は、直接選挙によってこれを選出する」では、法律みたいな文になる。憲法の「学問の自由はこれを保証する」を思い出した。
本当に難しい。
ただ、このくらい言葉を意識的に使うと、きちんとした論文が書けそうな気もするが。なかなかできそうにない。


ひねくれ教育事典 【え】
えんそく(遠足) 遠足は、学習指導要領の「特別活動」に位置づけられているれっきとした教育活動の一つである。本来は、遠いところへ足で移動するから遠足だったのだが、最近は足で移動するのではなくバスで移動するようになった。
昔(いつの話か)は、小学生や中学生がリュクサックやナップサックを背負って、長い列をつくってぞろぞろと歩いているのを見かけたが、今はほとんどみかけない。私たちが小学校6年生の時には、900メートルの高さの山に登った。「遠足」というからには、せめて10キロくらいは足で移動するようにしてほしい。

06/5/30 (Tue)

・画家の盗作が話題になっている。大騒ぎである。「盗作」も「倒錯」も大変なことなのだ。
・民間ならなんでもかんでもいいというものではない。社会保険庁のニュース見ると、腹ばかりたつ。
・どうも、事務的作業がさっさとできない。ほんとに愚図だ。

06/5/29 (Mon)

「小学校専門音楽III」という4年生向けの授業を担当している。いってしまえば、採用試験対策の授業で自由選択科目である。
音程、調、和音などの楽典的事項を教える。今の学生は、こういったことをほとんどきちんと教えられていない。
例えば、調号について。「シャープはシ。フラットはファ」からはじめる。正確に言えば、「シャープはファの音を半音高めてシに変える記号。フラットはシの音を半音低めてファに変える記号」(シャープ、フラットがいくつついてもこの原則はかわらない)。かえってややこしい?。それはあなたの階名概念が狂っているのです。

ひねくれ教育事典 【う】
うちゅう(宇宙) 宇宙とはどこまでを言うのだろうか。宇宙には果てがあるのだろうか。果てがあるとしたら、その果ては何でできているのだろうか。その果ての向こうには何があるのだろうか。では果てがないとすれば・・・。果てがないとはどんなことなのだろうか。子どものころ、こんなことをよく考えていた。考え出すと恐くなって眠れなくなった。天文学者にあこがれたこともあったが、こういうことを考えなくてはならないのがいやだからすぐにやめた。こういうことを考えるのは、自分だけかと思っていたら、みんな結構考えていたらしい。ただ、大人になるに従って現実に追われ、いつの間にか考えることをやめてしまうのだ。「子どもが考えていること」。結構おもしろいテーマである。

06/5/28 (Sun)

別に他意はないのだろうし、また冗談のつもりなのだろうが、数日前にある人からあることを言われ心かき乱されている。いまだに人間ができていない。

中央教育審議会初等中等教育分科会の各専門部会では、次期の学習指導要領改訂に向けて、各教科の方向を決める議論が行われている。
私は、このうちの一つである芸術専門部会に昨年度から所属している。ここでの議論は、今後文部科学省のホームページで公表されるので、ぜひ注目していただきたい。
残念なことに、各部会では、各教科の時間数に関しては議論しないことになっている。だから、今後音楽の時間数がどうなるかは、まだ流動的である。しかし親部会である教育課程部会には、芸術教科の時間をさらに削減しようとする意見もあるようだ。選択科目にしてしまおうという意見もきこえてくる。いわゆる「ゆとり教育」によって学力が低下したので、学力回復のために芸術教科を削減し、いわゆる「主要教科」の時間を増やそうということらしい。
学校の時間数には限りがある。また、社会的状況によっては、重点にすべき教科や内容もある。だから、私は単純に音楽の時間の拡大を求めたり、削減に反対したりするものではない。ただし、今回の動きだけは不合理だと思っている。
前2回教育課程の改訂によって、音楽の時間は大幅に削減されてきた。削減された大きな理由は、授業時間全体の削減と総合的な学習の時間の確保のためであった。つまり、ゆとり教育を実現するために従来の各教科の授業時数を削減したのである。では、今回の動きはどうか。もし、音楽の時間の削減が現実になれば、ゆとり教育によって起きた問題を解消するために、ゆとり教育のために犠牲になった教科をさらに犠牲にすることになる。ゆとり教育に問題があるなら、まず時間数を以前に戻すべきである。
私は、大学教育にかかわってもう30年になる。この間の度重なる授業時間数の削減によって、大学生の音楽の学力は確実に低下して来たと実感してる。小学校教員になる学生に対して、昔高校入試に出ていたような内容を大学の教室で教えなければならない。
音楽科をはじめとする芸術教科の学力はどうでもいいのか。今流行の言葉で言えば、教育政策の「品格」が試されている。

ひねくれ教育事典 【い】(4巡目)
いし(意志) 私は6年前にそれまで1日50本くらい吸っていたたばこをやめた。それで太りはじめたのでランニングをはじめ、フルマラソンまで走るようになった。よく人から「意志が強いね」といわれる。そんなことはない。私は意志薄弱である。近年の喫煙者に対する弾圧と最後まで闘うつもりだったのだが、意志薄弱で弾圧にまけたのである。この経過については、昔弘前大学の学園だよりに書いた。(このホームページの「吉田からのメッセージ」の「過去ログ1」、03/09/01を参照)。 


06/5/27 (Sat)

ランニングを再開した。
今日は、15キロを2時間くらいかけてゆっくり走った。弘前市街地の外回りを一周するという感じである。
「15キロもなぜ走れるのか?」と尋ねられることがある。理由は簡単である。帰れば冷蔵庫の中にビールが冷えている。それだけを楽しみにひたすら走るのである。
しかし、問題もある。何かに備えて、走るときには小銭を持って出る。これがいけない。家まであと7〜800メートルのところにコンビニがある。ついがまんできなくなって、缶ビール(発泡酒)を買ってしまう。これを飲みながら800メートルを歩く・・・うまーーーーーーーい。


将棋連盟の総会の結果が将棋連盟のHPに出ている。
>名人戦契約理事会案について
>賛成 149票、 反対34票、 無効1票、 棄権7票
ところが、この理事会案というのが昨日の案とは相当異なる。さすがに世論に負けたということだろう。
例えば毎日HPでは次のように報告されている。
「理事会が25日に発表した案は、(1)毎日新聞社と単独案の交渉をする。折り合いのつかなかった場合は(2)共催案(毎日新聞社、朝日新聞社、連盟の三者協議)。不調の場合は(3)朝日新聞社と交渉する−−という手順で交渉を進める、との内容だった。
 だが、理事会はこの日、当初の案を事実上、修正。毎日新聞社が単独主催を希望すれば、同社が提示した条件で契約するかどうかは、棋士の投票で決める。毎日新聞社が朝日新聞社との共催を希望すれば、その後の交渉は理事会に一任される−−との案を示し、採決をとった」(http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/shougi/)
しかし、将棋連盟のページには、理事会の案が承認されたことだけが書かれている。米長会長のHPも同じ。非常識である。



06/5/26 (Fri)

「スピーチと○○○○の丈は短いほど良い」と言う言葉があった。今、○○○○をはっきり言うと「セクハラだ!」と言われそうである。いやな時代である。
しかし、本当に長いスピーチには閉口する。
会議の発言も同じである。ほとんど的はずれなことをダラダラダラとしゃべる人がいる。こういう人は、発言の前にきちんとメモをつくらないようだ
自分の発言内容のメモくらいはつくってから話しはじめてほしい。とにかく自分が話すことによって他人の時間を奪っているのだということを自覚してほしい。とくにえらい人には気をつけてほしい。えらい人に対しては、みんな遠慮があるから「つまらない」ということをあからさまに態度には表せないからだ。

ランニングを復活した。ということは、ずっと走ってなかったということである。
ある同僚から「ドラえもんになりましたね」と言われてしまった。

昨日書いた将棋連盟の話。
今日棋士総会があるそうだ。
将棋連盟のHPにある理事会の方針は次の通り(新聞でも報道されている)。
(1) 毎日新聞社と単独案の交渉をする
折り合いのつかなかった場合は
(2) 共催案(毎日新聞社、朝日新聞社、連盟の三者協議)
不調の場合は
(3)朝日新聞社と交渉する
(1)→(2)→(3)の手順で交渉を進めることについて、可か否か議決する予定。
こんな提案があるか。
折り合いのつかない場合とは?
不調の場合とは?
フリーハンドを求めるような案である。
結局は、毎日に無理難題をふっかけて、最後は(3)にもっていくつもりなんだろう。
朝日と裏取引ができているのだ。

06/5/25 (Thu)

今日は午前中に東京で会議。昨日、新幹線で東京に来た。便利になったが、それでも遠いと思う。
すこし気になる見出しがあって『SAPIO』6/14号を買った。
西尾幹二「私が『新しい歴史教科書をつくる会』を去った理由」である。「新しい歴史教科書」というのは例の扶桑社の教科書である。この教科書をつくり採択させる運動をしてきたのが「つくる会」だ。その会で近頃大きな内紛があった。その内紛について元会長である西尾氏が書いているのだ。
私は、内紛のことなどどうでもいいし、つくる会がどうなろうと知ったことではない。
ただ心配なのは、会の中心的なメンバーとして活動しているF岡氏のことである。F岡氏がこのつくる会の運動をはじめた1995年頃までは、授業づくりに関わる研究会で一緒に活動してきたし、個人的なおつきあいもした。
授業論・教材論などでは大きな影響を受けた、今もまだその影響は残っている。ディベートに関心を持ったのもF岡氏の影響である。
このF岡氏が、つくる会の内部でいろいろな誹謗・中傷を受けているらしい。会の運動に賛成しているわけではないので、「中傷に負けずにがんばってください」とは言わない。だが、健康に留意してお元気でいていただきたいと思う。そしてできれば、歴史教科書よりも、昔のように授業づくりについて鋭く語っていただきたい。


自己紹介でも少し書いているが、私は将棋が好きだ。そして下手の横好きと言われるほどヘボだ。だから、将棋の強い人を無条件に尊敬する。
そしてその中でもプロ棋士となればもうあこがれさえ感じる。
ところが、最近その将棋のプロがまったくいやになった。今マスコミを騒がせてる名人戦問題である。
日本将棋連盟が名人戦の主催を毎日新聞から朝日新聞に移そうとしたことからはじまったのがこの問題である。私は、どちらがやろうとそれはどうでもいいのだが、この間の将棋連盟の連盟の不誠実さと言ったらどうしようもない。まず、言うことが猫の目のようにくるくる変わる。そして気に入らない人間のことをぼろくそに言う。その中心にいるのが会長の米長邦雄永世棋聖である。東京都教育委員としてのヒットラーぶり(石原知事がそう呼んでいるそうだ)、天皇の園遊会での勇み足の発言、この人の暴走をあげるときりがないが、それでもまだ許せたのだが、今度は将棋そのものをつぶそうとしているとしか思えない。この人を会長にしている限り、金輪際棋士を尊敬しない。

06/5/24 (Wed)

先週末に孫が生まれた。高知にいる長男の二人目の子どもだ。はやく飛んでいきたいのだが、ゆとりがない。
今日から東京に出張だ。そままま高知まで足をのばしたいが、仕事が山ほどあるのですぐ弘前に戻る。今回は断念。だんねんだ。

ある学校の研究主題の説明文
「本校では、『聞き取る力』『読み取る力』『感じ取る力』のそれぞれを段階的に向上させることを行っている。本校が考える『聞き取る力』『読み取る力』『感じ取る力』を経て、本校が目指す『聞き取る力』『読み取る力』『感じ取る力』へ到達することで研究主題の仮説が成立すると考える」
学校の研究主題の説明文にはこんなものが多い。おそらく書いた人も本気で書いたのではないだろう。研究大会があって、研究主題を決めなければならない。研究主題が決まればその説明文が必要だ。だからしかたなく書いた(書かされた)のではないだろうか。
そもそも、本校は考えるのか。本校は目指すのか。考えたり目指したりできるのは人間である。つまり本校の教員である。「そんなこと当たり前だろう」と言われそうだ。
では、「本校の教員が考える」「本校の教員が目指す」と書けばよいのか。そんなことは書けるはずがない。個々の教員がいつもそんなことを意識して実践できるわけがないからである。そもそも教育の仕事をいつもこんな学校全体の教育目標などを意識してできるわけないのである。目の前の児童、生徒にそれぞれの教科の内容をどう身につけさせるかということで頭がいっぱいのはずである(大学教員とて同じである。授業をしている時に、弘前大学教育学部の教育目標など頭の片隅にも浮かばない)。だから「教員が考える」と書くと不自然になる。「本校が考える」と言うような奇妙な文章が生まれるのである。
最後の「仮説が成立すると考える」も、おかしな文である。ここは本校ではなく、この文章を書いた人が「考える」のだろう。もし、学校全体の意思を書くのなら、こんな個人的な「考える」という文を挿入すべきでない。個人的な文章なら、きちんと個人の責任で書くべきである。
研究とは、個人(あるいは同じ「志」を持つ個人の集団)の責任において行うものである。「本校は」は結局は責任回避なのである。そして、こんな文章は当事者以外は読む気もしない。「書いた人しか読まない学校の研究紀要」と呼ばれる所以である。

というようなことを小中学校の先生に話すのだが、敵もさるもの。なかなか頑固である。

06/5/23 (Tue)

HPの更新を長い間、怠っていた。
いろいろな人から心配して頂いた。病気ではないのか? 忙しいのか? 何か真剣に悩んでいるのか?
まあ、心配してくださるのはありがたいが、何と言うことはない。
私には、あることにはまるととことんそれをやってみないと気が済まないところがあって、それにはまっていただけである。
何にはまっていたかって? それは内緒!


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