2006,10,18, Wednesday
寝床で読む『論語』
ブログでも本の紹介はつづけることにしたい。
山田史生『寝床で読む『論語』−これが凡人の生きる道』(ちくま新書・700円) 言わずと知れた(その道の学界でどのくらい言わずと知れているのかは門外漢である私は知らない。たぶん専門の中国哲学の世界では相当知られた人であるはずだ。少なくとも我が教育学部には知らない人はいない。我が同僚である−前にも書いたが、途中で括弧をつけて長々と注釈を入れるのは、私の悪いクセである。括弧の中の文章を書くのに夢中になって本題を忘れてしまうのである。「かっこつけやがって!」と言われそうであるが、自分らしさをわきまえて−−これもこの本の言わんとするところである−−書くことにしよう)山田史生氏の本である。山田氏本人にいただいた(サインは入っていなかった。今度もらいに行こう)。深謝! 「寝床」と言うと、あの有名な落語を思い出す。寝床で読むとおべんちゃらを言わなければならなくなる。だから寝床で読んで感想を書くのは失礼である。そこで、私は飲み屋で酒を飲みながら読むことにした。酒にはよく合う本だ。 まず、「はじめに」がよい。 あなたには自分の目で読み、自分の頭で考えてほしい。自信たっぷりに「○○は××である」と説いてある本が巷にはあふれているが、そんなのを鵜呑みにするようでいけない。本に書いてあることがなんでも正しいとは限らない(この本がその証拠である)という訳で、この本には凡人になる方法が『論語』にもとづいて書かれている。 例えば、論語なぞ全く無知な私でも知っているあの節についてはどのように書かれているだろうか。 師曰く。吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず。「踰」を探すのは大変である(シフトJISのE6FBである。おっとまた脱線しそうだ)。 この有名な節を山田氏は次のように訳す。 先生はいわれた。私は十五歳のとき、ひとつ学問で身を立ててやろうと決めた。三十歳のころ、なんとかこれで食ってゆけそうだという自信めいたものができた。四十歳になって、もっと別の生き方もあったんじゃなかろうか、とは考えなくなった。五十歳をむかえたとき、おのれの能力の限界が見えてきた。結局これが私にあたえられた運命だったのだと合点がいった。六十歳ともなると、どんなに気に食わない意見を聞いても、そんなに腹がたたないようになった。七十歳のいまとなっては、せいぜい派手にやらかしたつもりでも、はた迷惑をしかできなくなってしまったいいなあ。要は「自然の流れに身をまかせる」と言うことである。 山田氏は次のように結論づける。 生きるとは老いるこということである。若いころは、昨日を忘れ、明日を夢見てきた。老いたいまは、そのつど今日を生きるばかりである。さびしいけれどもそれもまたかけがえのない人生である。七十もなって「まだわかいもんには負けん」と腕まくりするのも、それはそれでかわいいけれど、あんまり本気だと見苦しい。 同感! しかし、私のまわりにいる70前後の人を見ていると、こう言うふうに生きるのは難しそうだ。とくに音楽教育関係の人はみんな脂ぎっている。 と言うわけで、一つ一つの節に味わいのある説明がつけられている。少しは、論語を知ったような気になれる。また、各章の扉についた南伸坊さんのイラストがなんともおかしい。 ただ、読み終えた私の感想はただ一つ。 「凡人になるのは難しい。私には無理だ」 |