2006,10,20, Friday
「いじめ」(その1)
「いじめ」について書く。ただし、現在問題になっている事件については、まだ真相が明らかになっていないので、その問題についてのコメントは今のところ避ける。
括弧尽きのいじめにしたのは、複雑な問題の絡み合った事態を「いじめ」という一つの言葉で呼ぶことに反対だからである。 私は、ひねくれ教育時点に次のように書いている。 いじめ いじめを学校からなくすにはどうすればよいか? 「いじめ」という言葉を学校からなくせばよいのである。そんないいかげんなと言われそうだが、本当にそう思うことがある。例えば、何か事件がおこると「学校でいじめがなかったか」ということが問題になる。「いじめがあったかなかったか」と言われても学校は答えようがないだろう。「いじめ」とはある行為を受けた人間の観念に属することがらだからである。もう2年ほど前に書いた文である。暴論と言われるかもしれないが、この考えは今でも変わっていない。ただ、「「いじめ」とはある行為を受けた人間の観念に属することがらだからである」は次のように変えたい。 「いじめ」とはある行為を行う人間と受けた人間の観念に属することがらだからである。そして、両者の観念が食い違うこともある。「いじめが原因の自殺」の文部科学省への報告がここ数年の間0件だったことをマスコミが問題にしている。文部科学省や教育委員会や学校をかばうつもりはない。しかし、このような結果は当然である。つまり、人間の観念に属する問題を数字で表すことはもともと不可能なのである。 また、自殺事件がおきたとき、教育委員会や学校が「いじめが原因」だと認めないこともマスコミは問題にする。両者の観念に属する問題を他人が判断できるはずがない。「いじめが原因」と認めないことを問題にすることによって、実はもっと重要なことが見落とされることになる。(つづく) |