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学校とは?
私は研究ノートに次のようなことを書いている。

学習指導要領の目標である「表現及び及び鑑賞の活動を通して」に関して、小学校学習指導要領解説(音楽編)には次のように記されている。

「『活動を通して』とは、指導しようとする内容を単なる知識として理解させようとしたり、技能の機械的な訓練のみにとらわれたりすることなく、音楽を伸び伸びと表現したり、音楽を聴いて心を引かれたりするなど、児童一人一人が感性を豊かに働かせながら、楽しい音楽活動を展開していくことの重要性を述べたものである」

つまり、「知識として理解」することや「技能の訓練」を否定するのである。
(この場合「単なる」や「機械的」と言う形容語には、「単なる」ではない知識や「機械的」でない訓練がどのようなものかを示さない限り意味がない。「指導する内容を知識として理解」「技能の訓練」と読んでも意味がかわらない。例えば「単に教育技術を身につけるだけではいけない」と言う人は教育技術そのものを否定している場合が多い)。

では、活動だけをすればよいのかというと、「活動あって学習なし」(これは前教科調査官がほうぼうに書いている言葉である)になってしまうので、「活動を通して・・・する」ということになる。

たしかに活動をすれば学習はできる。しかし本当に身につけさせたいことを知識を理解させたり繰り返しの練習をさせることなく、身につけさせることが可能であろうか。例えば、合唱を通して、「強弱を感じ取り表現を工夫する」という題材を設定しても、たいていは、そこで使用された合唱曲を仕上げるという授業になりやすい。そしてそれは、ある意味では自然なことである。合唱をすればその合唱曲美しく仕上げていくことが自然な音楽活動だからだ。その時に、「強弱を感じ取り表現を工夫する」ということになれば、授業をとめて、強弱表現について考えさせたり、話し合いをさせたりという授業になりがちである。そうすれば当然、音楽活動はとまってしまう。また「強弱」に焦点をしぼることは、結果として他の要素を捨象することになり、かえって表現の質としては落ちてしまうことさえある。やはり音楽活動してはきわめて不自然である。

活動と学習をいっしょにやることにそもそも無理があるのだ。活動は活動、学習は学習と思い切って分けて考えた方がよい。これは、1960年代の二本立て方式に通じる。学習は学習として切り離すことには二つの効果がある。
・学習を系統的にすすめることができる。
・活動が学習の課題から解放され、本来の音楽活動の姿になる。

知識に理解させることや技能の訓練をすることを躊躇すべきではない。そもそも学校と言うのは、子どもたちにに日常生活とは異なった時間と空間を提供するためにある。「知識の理解」や「技能の訓練」は日常生活ではできないことである。これを否定したのでは、学校の存在そのもを否定することになる。ここはぜひ改めてほしいと思っている。

| 教育+音楽 | 05:48 AM | comments (2) |
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