2006,11,19, Sunday
世論調査
本日の読売新聞に教育問題の世論調査結果がでている。
最近、「いじめ」によって子どもが自殺する事件があいついでいます。あなたは、こうした状況になった背景として、どういう問題がとく大きいと思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげてください。 現在の状況は、いろいろな原因が複雑にからんでおきている。上のすべてが原因とも言うことができる。ただ、私は「地域や社会全体の風潮が子どもに悪影響を与えている」をあげたい。 「親が社会のルールをルールを教えていない」どころか大人が平気で社会のルールを破っているのである。万引きで検挙される高齢者、後を絶たない飲酒運転、少女誘拐殺人、児童虐待、県知事の汚職・・・そして犯罪までいかなくても、見苦しい大人たちがたくさんいる。 「じゃあ、お前はどうなんだ」と言われそうだ。そう言われると、私も決して自慢できる生きかたをしているわけではない。「単なる酔っ払いのおじさん」になってしまっている。下り坂に来た人生。恥ずかしくない生き方をしなければ。 |
2006,11,19, Sunday
二本立て(その1)
私は、60年代の二本立ての考え方を、もう一度復活させたいと考えている。
私は、11日のこの欄に次のように書いた。 活動と学習をいっしょにやることにそもそも無理があるのだ。活動は活動、学習は学習と思い切って分けて考えた方がよい。これは、1960年代の二本立て方式に通じる。学習は学習として切り離すことには二つの効果がある。 これに対して佐藤先生から次のようなコメントをいただいた(佐藤先生には、いつも貴重なコメントをいただいている。感謝している)。 確かに2つの効果はあるでしょう。ただ,活動と学習を切り離すことで,学習が音楽から乖離してしまわないか,という危惧を私はもちます。音楽活動を通して学習することで,音楽と学習が有機的に結びつくのではないかと考えます。音楽活動をとおして,学習を系統的に指導する方法を探っているつもりです。指導の動画も見せていただいた。子どもたちは楽しそうに拍の流れに乗って動いている。よい授業だ。そしてこの場合は「何個数えると合いますか?」という発問もこの場合は適切である。しかし、これでもって音楽と学習が有機的に結びついている言うことはできるだろうか。例としてわかりやすいので、まずや拍や拍子から考えてみる。 「何個数えると合いますか」という発問は、ある楽曲にあわせて身体表現する活動にとっては適切な発問であるかもしれない。しかし「拍子」について学習する場合には、適切な発問であるわけではない。例えば、記譜上の拍子3拍子であっても、少しテンポが速くなれば、「1,2,3,4」と数えたほうがピッタリする場合もある。6拍子の場合には、「1,2」と数えて合う場合もあるし、「1,2,3」と数えて合う場合もある。また、数えないほうが良い場合すらある。佐藤先生でもいつも拍子を意識させるような指導をされているわけではないだろう。 そもそも音楽に絶対的な「拍」「拍子」が存在するものではない(記譜上の拍や拍子は存在するが)。ある長さを1拍ととれば、それを2〜3拍まとめた上位拍、あるいはそれを2〜3分割した下位拍というように、拍は何重かの階層構造をなしているのである。例えば、「ふるさと」(岡野貞一作曲)は記譜上は3/4拍子の曲であるが、4分音符の半分で8分音符1つ分を拍として感じることも可能であるし、1小節を1拍と感じることもできる。もちろん拍など意識しないで歌うほうがよい表現ができる。ただ、記譜上においてどの長さを単位拍とし、どの長さを小節とするかには、ほぼ長い間用いられてきた習慣や作曲者の意図が反映する。しかし、それでも絶対的な基準や約束事があるわけではない。 楽典上の約束事としての「拍子」は、あくまで約束事としてしか教えることはできないだろう。音楽的な意味での拍や拍子については、その定義ですら定まっていないほど複雑である(音楽事典や楽典書において「拍子」の定義を見ていただきたい。私は、30冊ほど調べてみたが、ぴったり腑に落ちる定義はなかった)。音楽活動を通して身につけさせることはとてもできないのである。 佐藤先生のように、音楽活動の中で、音楽の諸要素を意識させる指導を私は全面的に否定しているわけではない。しかし、特定の楽曲の表現の中で出てくる音楽の諸要素はあくまでその楽曲独自の表れ方をする。それだけで一般化はできないのである。佐藤先生は「音楽からの乖離」を心配されている。逆に私は学習を特定の作品から一度切り離すことこそ、必要なことであると考えているのである。つまり「乖離を恐れず堂々と切り離そう」と主張しているのである。 |