2007,05,17, Thursday
志願の理由
教員採用試験の願書を出す季節である。願書にはたいてい「志願の理由」を書く欄がある。中には「教員志望の理由」と「本県志願の理由」を分けて書かせるところもある。志願の理由など書かせてどうするのだろう。
普通の人は、職業の選択肢が無限にあるわけではない。自分の能力上の制約や家庭的な制約やさまざまな社会的制約によって選択肢は大幅に狭められる(だいたい大学進学の段階で狭められる)。そして残った選択肢の中からよりましなものを選んでいるにすぎない(それでも、教師という職業が選択肢の中に残っている人は幸せではある)。このような本音は書けないから、そこに書くことは建前論でしかない。「いや、私は教師を天職と考えている」と言う人もいるかも知れないが、そんなものは錯覚にすぎない。選択肢が狭められていることに気がついてないだけである。 本県志望の理由などは、もっとくだらない。そもそも人がある県や地方と関わりあいになるのは、偶然にすぎない。そんなものに理由がつけられるわけがない。 そもそも志望の理由などによって優劣をつけられるはずがないのである。人間不本意な仕事につかなければならないことはいくらでもある。教員だけは、不本意な人がなっていけないという理由はない。教員になっても教育の仕事とは無関係なくだらない雑用が山ほどある。天職と考えていようと不本意だろうと、その仕事を一生懸命やる。それでよいではないか。 では、私はなぜ音楽教育研究などやっているのか? 音楽的才能がなかったからである! なぜか、音楽教育界の人々はこのような言い方を嫌う。 「才能がないから音楽教育」という生き方はけしからんことらしい。 ♪さいた さいた チューリップの花が♪ 絵ではありません。 |