ある地方の情報誌にエッセイを頼まれた。
3月27・28日のこのブログの記事をアレンジして、何とか間に合わせた。
ああ、勘違い
どの雑誌か忘れたが、ある雑誌に「浦島太郎」の歌のことが出ていた。
帰って見ればこわはいかに」を「恐い蟹」と思っていたという話である。
この手の勘違いは実はいくらでもある。
代表的なものを書き出してみる。
うさぎ追いし彼の山→うさぎ美味し
負われて見たのは→追われてみたのは
さぎり消ゆる港江の→さぎり消ゆる港への
秋の夕陽に照る・山紅葉→照る山・紅葉
流れ寄る椰子の実一つ→流れよる(「流れている」の方言)
しゃぼん玉飛んだ屋根まで飛んだ→(屋根も飛んで行ってしまった)
母さんが夜なべをして→母さんが夜鍋をして
このような勘違いが生まれる理由ははっきりしている。まず、学校の音楽の授業で歌詞の意味についてきちんと指導することが少ないからである。学習指導要領には一応、どの学年にも「歌詞の表す情景や気持ちを想像して」と記されているが、実際の指導はおざなりになっているのではないだろうか。ただし、それだけではない。歌詞上の理由や音楽的な理由もある。
歌詞上の理由としては、学校で歌われている歌、特に文部省唱歌や日本歌曲の歌詞が文語で書かれていることが挙げられる。例えば「うさぎおいし」からはを、現在の子どもならが「うさぎおいしい」と想像するのも当然である。
音楽上の理由としては、旋律が歌詞と合っていないことなどが挙げられる。「照る山紅葉」が「照る山」に四拍子の一小節内の前半の二拍が、「紅葉」に後半の二拍が使われれば、「照る・山紅葉」とは聞こえない。
ただ、私はこのような勘違いに目くじらを立てているわけではない。勘違いして歌っている時には、何となく違和感を持って歌っているはずだ。どこか、つじつまがあわないもどかしさがある。だから、それが勘違いと分かった時には快感が走る。一度は勘違いして見るのも楽しいことである。
一方、次のような笑える勘違いもある。
思い込んだら試練の道を→重いコンダラ
「巨人の星」(懐かしい)の飛雄馬がローラーを引いている場面が、この歌とともに映し出されるので、ローラーのことを「コンダラ」と思った少年がたくさんいるという話である。ただ、少し話ができすぎている。
笑いごとではすまされない勘違いもある。
さざれ石のいわおとなりて→岩音鳴りて
実際に学校でこう指導した先生がいるらしい。その先生の行く末が心配である。笑い話ですませられればいいのだが。
次のような、意図的に勘違いをねらった危険な歌もある。(つボイノリオ作詞「金太の大冒険」)
金太負けるな、金太負けるな、金太負けるな→??????
格調高いのが次の歌。勘違いではなく、「過ぎ」と「杉」をかけている。私はなぜか、この部分で涙が止まらなくなる。
いつしか年もすぎ(過ぎ・杉)の戸を
あけてぞ今朝は別れゆく