2007,02,25, Sunday
授業研究の無駄
先日、小学校の授業研究会に出席させていただいた。音楽の授業を1時間見て、そのあと全体でその授業について話し合う会だった。
数曲の輪唱教材を歌う授業で、「お互いに聴き合って歌う」ことを目標にした授業であった。子どもたちの歌声を聴く限り、子どもたちの声は確実によくなっていったし、個人差はあるが目標は全体として達成されていた。 ところが、その後の研究会では、実に多くの意見が出た。しかし、そこで出た意見は本当に授業を見ていたのかどうか、子どもたちの歌声を聴いていたのかどうか、疑わしいものばかりだった。少なくとも、教師の働きかけや子どもの歌声や輪唱の響きの美しさなどに関するは発言は一つもなかったのである。 出た意見を一つだけ例を示す。例えば次のような意見である。 「子どもに発声のお手本となるようなビデオを見せたらどうか」 この意見は、見方を変えればすごいことを言っているのである。 授業者の先生は、教材提示の仕方として、自分で子どもに歌って聴かせるという方法を選ばれたのである。お手本を見せろと言うことは、教師が自分で歌って聴かせるという方法に対してケチを付けているのである。少なくともその教師が歌って聴かせるよりお手本のビデオを見せるほうが効果的だと言っていることになる。 私はたまらなくなって、発言した先生に尋ねた。 「そんなビデオはどこにあるのですか」 答えはなかった。どこかにあるのかもしれないが、私は知らない。驚くべきことに発言した先生も知らないらしい。当然自分がやったこともないのである。自分も知らないし、やったこともないことをなぜ人に勧められるのか。人にこうすればよいと意見をするのなら、すくなくとも存在くらいは示すべきである。「勉強しなさい」と言うのなら、読むべき本を示すべきなのと同じである。推測だが、こういう発言をする人は、今まで音楽の授業にかかわる本を1冊も読んだことがないのである。 小学校や中学校の授業研究に行くと、授業者の先生の授業の意図や教育内容・教材を無視し、子どもの一つ一つの事実も無視して、上のような一般論を思いつきで言う人が何人かいる。こんなことを繰り返している限り、授業研究は発展しない。というより研究にもならない。 |
コメント
だから私のような「やくざな受験教師」は「堅気の学校教師」を
バカにしてしまうのかもしれない。 ところで輪唱の美しさに目覚めたのは小学校のときに歌った 「紅葉」です。戦前の編曲なんですね。
| 石原真 | URL | | 1970/01/01 09:00 AM | p9pwajAU |
「堅気」でもすごい人はすごいです。
「紅葉」は最後まで輪唱で歌い通すのは無理です。 はじめから輪唱曲だったのか、たまたま輪唱になったのか。
| 吉田孝 | URL | | 1970/01/01 09:00 AM | IjPo0F8c |
小学生の頃に歌った、前半部分が輪唱になっている「紅葉」は
中野義見ですね。私の知る限りでは昭和11年に出版されたものに 載っていて、たぶんこれが初出かな、と。
| 石原真 | URL | | 1970/01/01 09:00 AM | p9pwajAU |
原曲の初出は、明治44年『尋常小学唱歌2』ですが、この時は輪唱曲として創られたのではないのでしょう。
でも、この曲、全曲輪唱しても、そんなにおかしくないですね。 (前言取り消し)
| 吉田孝 | URL | | 1970/01/01 09:00 AM | d2tgLU0c |
唱歌を輪唱に、あるいは輪唱っぽく編曲することがある時期はやった
のかなぁ、と。 で、中野義見版は私が習ったときのものとは微妙に異なっています。 しかし伴奏はそっくりなので「私が習ったのもの」も中野版なのでしょう。 ところで、(私が指揮をしている)合唱団の人たちもほぼ全員この編曲を 知っています(世代さまざま)。 下手をすると(?)輪唱が原曲だと思っている人もいるかもしれませんね。
| 石原真 | URL | | 1970/01/01 09:00 AM | p9pwajAU |
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