2007,10,27, Saturday
説明の能力
昨日、亀田興毅選手が謝罪会見をした。その中で気になる部分がある。
−何という言葉の貧困さか。これは、かなり重要なポイントである。興毅選手が言いたかったことは次のようなことではないか。 試合中は興奮して何を言ったのか覚えていない。自分の意図とは違うことを言ってしまうことはある。いっさいの言い訳をせずに、事実だからしかたがないと認めてしまうことは潔く見えるかもしれないが、やはりそれでは真実を話したことにならない。意図がなくても悪いことは悪い。それでも「意図がなかった」ことは主張すべきではなかったか。「反則の指示を認めるということか」「はい」で意図があったかどうかは永遠にあいまいになってしまった(推測はいくらでもできる)。 実は、意図があったかどうかは、罪深さの重要な尺度になるのだ。殺人事件の裁判で言えば、「殺人罪」と「傷害致死」の差になり、ひいては、「死刑」と「有期刑」くらいの差が出る。 例えば、光市母子殺人事件の犯人は、死刑の可能性の薄い状況では、反省の意思を示すためか殺人の意図を認めた。しかし死刑の可能性が高まってきた時点で意図を否定しはじめた。おそらくこの戦術は失敗するだろう(はじめから否定していれば違った展開になっていただろう。戦術の変更が遺族を苦しめ、裁判官の心証も悪くするだろう)。 日本では、あれこれ言い訳をすることは、美学に反するという空気がある。それによってすべてをあいまいにしたまま一件落着となる。それは本人にとっても、また社会全体にとっても幸せなことではない。 興毅選手はもっとしっかり説明すべきだった。しかし、説明するには言葉が不自由すぎた。日本語能力の欠如がいつか自分を不幸にする。 |
コメント
コメントはありません。
| | URL | | | |
コメントする
|