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実践報告
日本音楽教育学会大会での研究発表で感じたこと。

最近は小、中、高等学校の先生が自分の授業実践を事例にした研究発表が増えている。これを「実践報告」と呼んでおくことにしよう(抵抗はあるが、他に言葉が見あたらない)。このような「実践報告」が増加していることはとても良いことである。これらの実践報告をどう評価すべきなのか。まだ、頭の中は整理されていないが、大会中に考えたことを忘れないうちに書いておく。

実践報告に対するフロアからの第一声のほとんどは、「とてもすばらしい実践でした」と言う評価である。今回も何度も聞いた。実践報告に対してこのような評価をくだすことは、厳密に言えば誤っている。理由は2つである。

(1)学会での実践報告は「実践報告」とは言っても、研究の成果の発表であって、実践の発表ではない。自分の実践を取り上げるにしても、それはたまたま「実践者」と「研究者」が同一人物であったに過ぎない。あくまでも研究者としての活動を評価すべきである。

(2)そもそも実践報告から、実践を評価することは不可能なのである。実践報告は「実践」そのものではない。つまり、自分の実践についての報告であっても、それは報告者の頭の中で再構成された実践なのである。

授業実践は、教師が何らかの意図を持って行うものだが、授業の結果には教師の意図が反映されるだけでなく、教師が意図しなかったことも大きく反映される。S氏はこれを「潜在的カリキュラム」と呼んでいた。「隠れたカリキュラム」と呼ばれることもある。一般的に実践者と研究者が同一人物である場合、そのような隠れたカリキュラムは実践報告には現れにくい。少なくとも実践を評価するならば、このような隠れたカリキュラムも含めてなされるべきである(「実践報告」とは別の研究手法が必要である)。

実践報告は実践そのものではない。それは、結局のところはその自分の実践を素材にした「実践について思想」の報告である(たとえ事実だけを取り出して記述したように見えても、その事実を取り出したこと自体が思想の表明でもある)。したがって、実践研究の評価は、その思想がすぐれたものであるどうか、つまり他の実践を変革するような力があるかどうかについてなされるべきである。

もちろんすぐれた思想を発表をしている発表者はすぐれた実践もしているだろうと推測することはできる(そうだろうと期待したい)。逆にあきらかに、この発表者の授業はつまらないだろうと推測できるものもある(例えば、発表の仕方のつまらない人の授業はきっとつまらないはずだと推測する)。しかし、あくまでも推測である。推測で評価してはいけない。(大学に所属する研究者は、このような意味では私も含めて概して傲慢である。禁欲しなければならない)。

一方で、「実践報告は実践の事実の報告なのだから、評価をしていけない」という意見もあるそうだ。もちろん実践報告から「実践」を評価することはできないし、してはいけない。しかし、その実践を通して表明されている「実践についての思想」は当然評価できるはずである。もし「実践報告を評価してはいけない」とすれば、学会誌に投稿されてきた実践報告はすべて掲載しなければならなくなる。
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とは言うものの、やっぱり自分が発表しないのに大会に参加してもつまらない。
前会長のM氏は、大会では必ず研究発表してきたと懇親会のあいさつで述べられていた。これは見習わなくっちゃ。

| 教育+音楽 | 04:04 AM | comments (0) |
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