2006,11,30, Thursday
禁煙セラピー
津軽は雪なのである。
青森ライブカメラ(弘前大学情報処理センター)で楽しんで(?)いただきたい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 下の本の著者、アレン・カー氏が肺ガンで亡くなった。72歳だった。 アレン・カー著(阪本章子訳) 『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』(KKロングセラーズ・1996年・945円) 禁煙セラピーの著者が肺ガンと言うと皮肉のようだが、1985年まで1日100本ほど吸っていたそうだから仕方ない。セラピー中の受動喫煙によるという可能性も強い。しかし、この本を読んだり、この方法によるセラピーを受けたりしてたばこをやめた人は全世界で2500万人にのぼるそうである。そして、実はこの私もこの本でやめたのである。 この本は、やたらとたばこの害を書いて怖がらせてたばこをやめさせようとするものではない(そんなことで、たばこはやめられない)。居丈高に嫌煙権をふりかざすのものでもない(なんせ自分が100本も吸っていたのだから)。また、精神主義によってたばこをやめさせようとするものでもない。 たばこがやめられない人は、「たばこをやめると人生の大切なものが一つなくなる」と思っている。この本を読むとそれが錯覚だということに気づく。またたばこを吸っていると、人生の一番楽しい時間でも「たばこ、たばこ」とたばこのことが頭からはなれない。私の場合、音楽会で音楽を聴いていてちょうどクライマックスに達した時、別のこと(?)をしていてやはりクライマックスに達した時などにそれが襲ってきていた。この本を読むと、それでずいぶん損をしたなあと思うようなる。沢たまきさんのあの歌の真意もこの時はじめてわかった。さらに良いのは、本を読み終わるまで、たばこを吸ってもよいことである。私は、チェーン・スモーキングしながらこの本を読んだ。 私は、この本を通勤中の電車の中で読み終えた。読み終えるとすぐに禁煙する気になった。それで、この本に書いてある通りに(読み終えたら最後の1本を吸うように書いてある)、最後のたばこを通勤中の新宿駅の山の手線内回り線ホームの喫煙コーナーでゆっくり吸った。これが最後の1本となった。その後もまったく苦しまずにやめることができた。2000年7月2日のことである。マラソンをはじめたのもこの禁煙がきっかけである(この本を読んでたばこをやめる気になったのだが、なぜこの本を買って読む気になったのかときかれるととても困る)。 私だって、1日50本を30年間吸い続けて来たのだから、やはり将来肺ガンになるかもしれない。それでも、禁煙したことを後悔しない。明らかに禁煙前より楽しい人生を送っているからだ。アレン・カーさん、ありがとう。合掌。 ![]() |
2006,11,30, Thursday
大学教員の職名
大学の教員の職名が変わる。
従来の教授、助教授、講師、助手に変わって、教授、準教授、講師、助教、助手という制度になる。助教、助手の件に関しては、さまざまな問題があるので別の機会に書く。ただ、准教授に関しては非常に現実的な改革である。 従来の「助教授」という呼称だと、大学の外側の社会から見ると教授を助ける仕事だと思われるかもしれない。しかし、実際はそのような助教授が教授を助けているわけでもないし、助教授が教授の部下であるわけでもない。逆に教授が助教授に何らかの命令を下したり、指導をしたりしているわけではない(できるわけもない)。それぞれが独立して仕事ができる(助け合うことはあるが)ようになっている。私もまた、助教授時代に教授のことを「上司」と思ったことは一度もない。実際にはそれ以上によく働いていたと自負している。だから、「助教授」という名称はもうとっくに現実とはあっていなかったのである。 さらには、現在のような日本の大学の制度の中では、教授、準教授というような職階制度そのものが必要なのかどうか。本当は、それも検討すべきなのだ。少なくとも私が所属する教育学部(全国の教育学部も同じ)では、管理職になれるかなれないか位の違いを除いては、両者の職務にはほとんど違いがない。 |
2006,11,29, Wednesday
総理の格付け
旅行をすると、どうしても本を買うことが多くなる。帰ってみたら、4日間で雑誌以外で6冊。
安倍首相は、伊藤博文から数えて56人目、第90代の首相になるそうだ。ちなみに第87〜89代が小泉元首相である。そして伊藤博文から小泉純一郎までの56人の首相を五段階でランク付けした本が出た。 八幡和郎『歴代総理の通信簿 間違いだらけの首相選び』(PHP新書・880円) こういう本はまず結論を見るに限る。興味のあったところだけ本文を読めばよい。 めぼしいところを見る。 岸信介(安倍首相の祖父) B 池田勇人(高度経済成長) A 田中角栄(あの人です) C 細川護煕(非自民) B 村山富市(社会党) C 小泉純一郎(あの方です) D この著者のものの考え方が何となく見えてくる。 ちなみに、Aランクは、池田の他は、伊藤博文、桂太郎、原敬、幣原喜重郎、吉田茂、でさすがに大物。Eランクは、大隈重信(意外!)、林銑十郎、近衛文麿、東条英機である。 やはり、まず小泉純一郎の低評価の根拠を知りたい。格差社会をもたらしたというのは当然だとしても、次のような記述がある。 この人ほどテレビ画面に強い政治家も珍しい。とくに凄いのは、いわゆるテレビ目線だということだ。テレビに出演するときに、普通は対談相手はインタビュアーのほうを見る方が自然だと指導される。だが、小泉をカメラを見て視聴者に直接語る。そんな政治家は、キャスター出身の橋本大二郎くらいしか、ほかにはいない。しかも、質問の内容などお構いなしに言いたいことを言う。格好いいのも当然だ。うーんなるほど、と感心していてはいけない。国民全体がすっかりこれにはまってしまったのだから。 とにかく、寝ころんで読んでも面白い本だ。もちろん、この著者の評価を鵜呑みにする必要はない。最後は自分で決めたらよい。ただ、歴代の首相が何をしたかは分かる。事典がわりになる。 |
2006,11,28, Tuesday
松山
話は前後するが、23日は松山でハーフマラソンに出た。高知に行くついでに、自分の一番最初の赴任地である松山に寄って行きたかったのだ。体重増と練習不足(10月1日のフルマラソン以来3日しか練習できていない)のため、自分のベストより35分もおそいさんざんなタイムだったが、それでも気持ちよく走れた。優勝は、あの土佐礼子選手のご主人である村井啓一さんだったそうだ(何せ、1時間以上もあとからゴールするので、レース時には知るよしもなく)。
私は、一番遠くからの参加者だったらしい。遠来賞ということで、砥部焼(松山時代には旅行時のお土産にするためによく買ったものだ)をもらった。なつかしかった。 |
2006,11,28, Tuesday
高知
![]() 高知はりまや橋交差点。北西から南東を撮影 高知に行ってきた。自分の一生の中で、高知は県レベルでは二番目に、市区町村レベルでは一番長く住んだ場所である。街がずいぶん寂しくなっていた。街の中心地のはりまや橋交差点のデパートとホテルの跡が更地になっていた。街のあちこちにあった映画館がすべて閉館になっていた。商店街の中にあったダイエーはシャッターが閉まっていた。中心街から離れたところにある商店街にはシャッターの閉まった店が並んでいた。 そのかわりに、郊外に例のグループがつくった駐車場付の大きなショッピングモールができていた。映画館も全部そこにあった。 要するに弘前とほとんど同じ状況になりつつある。 都市の空洞化は高知のような県庁所在地にまで押し寄せてきている。寂しくなった街も心配だが、例のグループがつくったショッピングモール周辺も心配である。例の本によると、そのまわりでは必ず凶悪犯罪が起こると言う。また、学校も荒れて来ると言う。そりゃあそうだろう。欲望の対象が一カ所に集まってきたような状況を呈している。 (補足) 高知の人から見れば、お節介に映るかもしれないが、そんなことはない。私の○○はこれからここで育っていくのである。 |
2006,11,27, Monday
競争原理
また、腹が立った。
昨日、BS放送で「BSディベート」という番組を見た。論題は「どうすれば教師の質を高められるか」。内閣府が設置した規制改革・民間開放推進会議専門委員である戸田忠雄(教育アナリスト)、安念潤司(成蹊大学法科大学院教授)両氏対教育学者の佐藤学(東大大学院教授)・藤田英典(国際基督教大学教授)両氏という構図でディベートが行われていた。戸田、安念両氏が市場開放原理から、学校選択制を盛んに強調するのに対して、佐藤・藤田両氏は教育学者らしく冷静にそれに反論していた。 ディベートという割には、議論がかみあっていなかった。それは、戸田氏・安念氏の議論の仕方が粗暴きわまるものであったことにつきる(私は、佐藤氏もあまり好きじゃないのだが、戸田、安念両氏がひどすぎた)。とくに安念氏の議論はでたらめである。安念氏の主張が番組のホームページに出ている。 低品質のサービスを一律平等にユーザーに押し売りする―― ばかか! こんなインチキくさい議論がディベートと言えるか。学校に競争原理を持ち込む。仮に安念氏の言うことが正しいとすれば、それが効果を及ぼすためには、教師や学校がこぞってその競争に参加し競争で勝利するために全力をあげることが条件になる。競争に全力をあげさせるには賞品が必要である。そして当然のことながら競争の賞品には限りがある。賞品を増やすには競争への参加賞を削減しなければならない。参加賞さえもらえない人ができれば、敗者はますます落ち込んでいく。当然、学校間に大きな格差ができる。地域間にも格差が拡がることになる。教師も学校も勝ち組になるために必死になるしかない。教師の世界にも「自分だけが生き残れば良い」というエゴが拡がっていく。これで子どもが「ハッピー」になるのか(たぶん、一部の子どもだけが「ハッピー」になれるのだろう。「ハッピー」などという言葉がまず怪しげである)。 日本の教育は画一的・一律的と言われながらも、国が教育全体に責任を持つことで一定の質を維持して来た。「低品質」と言うが、本当に低品質なのか。「いじめ」問題に見られるさまざまな教育問題は、この一律的な教育がもたらしたものなのか。それはそれで研究が必要だ。しかし、競争原理を持ち込めばそれらが解決するのか。 競争原理は大学教育にも拡がってきている。法人化は大学間に競争をもたらした。大学内では教員評価によって教員同士の競争が導入されようとしている。私が再三再四ここに書いている「学生による授業評価」がこの教員評価に利用されようとしている。今の国立大学が法人化以前よりよくなった思っている人がどれだけいるか。 今、安倍内閣が国会を通過させよとしている教育基本法の改「正」案では、「愛国心」が強調されている。「愛国」とは国という自分の所属する集団、つまり公という横に広がる精神の在り方を言う。家族を愛し、友人を愛し、学校や地域の人々を愛し、国を愛し、力を合わせて美しい国をつくっていく。こういう愛国心が自然に生まれて来るような教育にすることがねらいではないのか。そう言う内閣が、人間のエゴに基いて教育界に市場原理を持ち込もうとする人を政府の機関に採用し、そのような方向で教育改革を進めようとする。一体どちらが本当の姿か。 「美しい国」というスローガンは、エゴの蔓延する「汚らしい国」をつくる政策を覆い隠すための詐術に過ぎないのか。 |
2006,11,25, Saturday
こーっちはどーさ
![]() 「土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うをみた よさこいよさこい」 土佐の民謡「よさこい節」の一節である。 江戸時代に高僧・純信が鋳掛屋の娘お馬と恋仲に陥ったことを題材にしている。 この民謡を途中に挿入し、大ヒットした歌謡曲が「南国土佐を後にして」(作詞作曲:武政英策 歌:ペギー葉山)であり、この民謡を踊りにアレンジしたものが「よさこい鳴子踊り」(武政英策編曲)である。 そうなのだ、「よさこい」というのは高知が発祥の地である。北海道のものではないのである。最近はけったいなよさこいもあるが、高知のものだということを忘れてはいけないのである。 下の写真は、今年の大河ドラマで一躍有名になった人である。ただし、「千代」さんという名前だったかははっきりわかっていないだ。この像には「山内一豊の妻」とだけ表示されている。 ![]() |
2006,11,24, Friday
なめられている?
仲正昌樹『ネット時代の反論術』(文春新書・730)円
冒頭から次のようなことが書いてある。 学校と名のつくところで「先生」と呼ばれる職業の人は多かれ好くなかれ体験されていることだと思いますが、大学の学生さんも、こちらの言っていることをまじめに聴いてくれないけど、そのわりには「批判」だけは一人前にしますので、非常につかれます。こういう文を読むと、本当にムカムカとする。もちろん著者に対してではない。本当にこれに近い学生がたくさんいるからだ。そもそも、大学生が自分の専門の授業を受けて「わからない」ということ自体が、とてもはずかしいことなのだ。なぜ、そんなはずかしいことを平気で言うようになったのか。それは、大学がそう言うことを公認しているからだ。 学生による授業評価アンケート。すっかり大学に定着した。お金をかけてやるわりには、ほとんど役に立っていない。それどころか「この授業はわかりやすかったか」という質問があるおかげで、上のように学生を増長される結果になっている。私は、なんども主張してきたが、それも疲れてきた。おそらくこれを一生懸命やっている人たちだって、つまらないことはわかっているのだ。しかし、「学位授業機構」などの大学を評価する機関が許さないのだ。 本の紹介のつもりで書き始めたが、冒頭から腹が立ったのであらぬ方向に行ってしまった。この本にの帯には《「言われっぱなしで悔しい!!」からの脱出》と書かれている。脱出法は確かに書かれているのだが、それ以上に読めば読むほど「悔しい」と思ったことを思い出してしまう。ストレスのたまる本である。 |
2006,11,24, Friday
ここはどーこ?
昨日、私はここにいた。
なぜここに? ![]() いやー、一日更新しないと、ランキングが下がりますね。 |
2006,11,22, Wednesday
「新しい酒は新しい革袋に」
「新しい酒は新しい革袋に」
これは、新訳聖書からとった句である。 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。イエスは言われた。「(中略)。また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋にいれたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコによる福音書)これは、新しいものと古いものは両立しえないことだということを教えるたとえ話だとされている。しかし、見落としてしまいがちだが、新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、本当に革袋は破れてしまうのか。たしかにあまりにも古い革袋だと破れるだろうが、そんな袋は古いぶどう酒を入れても破れるだろう。「新しい酒は新しい革袋にいれたほうがよい」くらいならわかるが、たとえしては少し大げさすぎるのである。なぜ、こんな大げさなたとえをイエスはしたのか。 加藤隆『『新訳聖書』の「たとえ」を解く』(ちくま新書・740円) 新訳聖書にはたくさんの「たとえ」がでてくる。その謎を解いた本である。聖書の謎として読んでもよいが、「比喩」論、「隠喩」論として読んでも面白い。 |