2007,02,28, Wednesday
君が代
卒業式での「君が代」の伴奏を拒否して懲戒処分を受けた音楽の教師が処分の取り消しを求めた裁判で、最高裁は教師の訴えを取り下げた。なぜ、こんなことが裁判にまでなるのか。この問題に関する私の考えは次の通りである。
式を妨害しない限り処分の対象とはしない。 音楽の教師が伴奏しなくても、伴奏できる教師などかわりはいくらでもいるはずだ。それに嫌々ながら伴奏すると間違えることもある(そうすると処分の対象となるのだろうか)。また起立しない教師がいたとしても、それで式典ができなくなると言うほどのものでもないだろう。人間だれでも演奏したくない曲、歌いたくない歌はある。そのくらいは認めるべきだ。それで問題は解決するはずだ。双方これで手を打ってこれ以上問題を拡大させないようにするほうが良い。 ところで、「君が代」は、国旗及び国歌に関する法律によって次にように定められている。 第二条 国歌は、君が代とする。そして別記第二として掲げられているのが次の楽譜である。 ![]() 当たり前と言えば当たり前なのだが、五線譜で書かれている。実は日本の法律の中で五線譜が使われているのはここだけである。つまり次のようなことになる。 日本国は五線記譜法を正式な記譜法とする このことについて疑問を呈する人はいなかったのだろうか。まっ、いいか。120年ほど前に、伊澤修二音楽取調掛長が「我音律ト西洋ノ音律トハ毫モ異ナルコトナシ」(音楽取調成績申報書)と言ったのだ。 |
2007,02,26, Monday
ウエストサイド物語
衛星放送"WowWow"で、ミュージカル映画「ウェストサイド物語」を観た。何度も観ているのだが、何度観ても新しい発見がある。
物語は、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」のニューヨーク版である。アメリカ人の不良少年グループ「ジェット団」とプエルトリコ出身の不良少年グループ「シャーク団」が対立している。その中で、ジェット団の仲間であるトニーと、シャーク団のリーダーの妹であるマリアが恋に落ちる。そこで悲劇がおきる。 ストーリーも良いのだが、何といってもレナード・バーンスタインの音楽が最高である。有名な"Tonight"、"Maria"も良いが、私が好きなのは"Quintet"である。ジェット団、シャーク団、シャーク団のリーダーの恋人のアニタ、トニー、マリアが別々のメロディーを歌いながらそれが最後は一つになる。私は毎回この場面で涙が止まらなくなる。 1962年の作品だが、とても45年の歳月を感じさせない。DVDも出ているようだ。 |
2007,02,25, Sunday
授業研究の無駄
先日、小学校の授業研究会に出席させていただいた。音楽の授業を1時間見て、そのあと全体でその授業について話し合う会だった。
数曲の輪唱教材を歌う授業で、「お互いに聴き合って歌う」ことを目標にした授業であった。子どもたちの歌声を聴く限り、子どもたちの声は確実によくなっていったし、個人差はあるが目標は全体として達成されていた。 ところが、その後の研究会では、実に多くの意見が出た。しかし、そこで出た意見は本当に授業を見ていたのかどうか、子どもたちの歌声を聴いていたのかどうか、疑わしいものばかりだった。少なくとも、教師の働きかけや子どもの歌声や輪唱の響きの美しさなどに関するは発言は一つもなかったのである。 出た意見を一つだけ例を示す。例えば次のような意見である。 「子どもに発声のお手本となるようなビデオを見せたらどうか」 この意見は、見方を変えればすごいことを言っているのである。 授業者の先生は、教材提示の仕方として、自分で子どもに歌って聴かせるという方法を選ばれたのである。お手本を見せろと言うことは、教師が自分で歌って聴かせるという方法に対してケチを付けているのである。少なくともその教師が歌って聴かせるよりお手本のビデオを見せるほうが効果的だと言っていることになる。 私はたまらなくなって、発言した先生に尋ねた。 「そんなビデオはどこにあるのですか」 答えはなかった。どこかにあるのかもしれないが、私は知らない。驚くべきことに発言した先生も知らないらしい。当然自分がやったこともないのである。自分も知らないし、やったこともないことをなぜ人に勧められるのか。人にこうすればよいと意見をするのなら、すくなくとも存在くらいは示すべきである。「勉強しなさい」と言うのなら、読むべき本を示すべきなのと同じである。推測だが、こういう発言をする人は、今まで音楽の授業にかかわる本を1冊も読んだことがないのである。 小学校や中学校の授業研究に行くと、授業者の先生の授業の意図や教育内容・教材を無視し、子どもの一つ一つの事実も無視して、上のような一般論を思いつきで言う人が何人かいる。こんなことを繰り返している限り、授業研究は発展しない。というより研究にもならない。 |
2007,02,25, Sunday
くさーーーーー!
いやいや、噂には聞いていたがこんなにくさいとは。
東京に出張した折に、帰りは上野から新幹線に乗った。少しだけ時間があったので、アメ横でくさやを買って帰った。深い理由はない。老い先短いので、生きてるうちにいろいろなものを食べておきたいと思っただけだ。しかし、これが本当にくさいのだ。 真空パックになっているのだが、それでも少し臭いがもれる。新幹線の中は暖かいので、もう少し時間がたてば少し危なかったかもしれない。家に帰ってさっそく封を開いたが、その瞬間に嫌な臭いが。換気扇をつけて焼いてみると家中にウ○コの腐ったような臭いが拡がった。臭いのをがまんして身をほぐして食べた。味はなかなかのもので酒にも良く合った。 しかし今度は食べたあとの臭いの処理がたいへんである。食べたあとの骨、入っていたビニール、焼いた網、少しの時間入れておいた冷蔵庫、食べた時のお皿、そして絨毯、カーテン、こたつ布団、みんなくさい。ファブリーズをだいぶ撒いたがそれでも臭いがとれない。一晩たったがまだかすかに臭う。 みなさん、くさやを食べるなら、屋外の人里はなれたところで調理して食べましょう。 ご近所の方、いやな臭いがしたらそれは私のせいです。ごめんなさい。 |
2007,02,24, Saturday
おもしろすぎる(その2)
おもしろすぎる。そしてうれしくなる。
いろいろな事柄の中で外国人の筆者らが一人残らず一致する事がある。それは日本が子供たちの天国だということである。この国の子供達はは親切に取り扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持ちのよい経験の、より多くの変化を持っている(吉田注 少し変な訳だなあ)。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎める(ママ)こともなく、叱られることもなく五月蠅く愚図愚図いわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼らは如何にも甘やかされて増長して了い(ママ)そうであるが、而も世界中で両親を敬愛して老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはなない。 E.S.モース『日本その日その日1−3』(平凡社東洋文庫・1970) 上の文はこの本の中の「1877年の日本」の一部である。著者のモースは日本近海の腕足類の研究のために明治のはじめに日本に来て、大森貝塚の発掘などで知られた人である。この人の書いた言わば、日本を対象にしたエスノグラフィーである。 この人は、生物学者らしく? 見たものをすべてスケッチしている。この本の開いたほぼすべてのページに見られる挿絵を見ていくだけでも楽しくなる。もちろん当時の音楽の場面も出てくる。いかにも音が鳴ってきそうである。 この本は1970年当時の1冊あたり定価で450円。この3冊を私は「日本の古本屋」で3冊を送料込みで約4000円弱で入手した。ちょっと得した気分である。 |
2007,02,21, Wednesday
弘前大学教育学部国際音楽センター
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2007,02,20, Tuesday
立ち○○○
昨日はちょっと危なかったのである。
いくら体が元気でも「歳を取った」と感じることがたくさんある。記憶力がなくなった、近くが見えなくなった、気が短くなった(これは昔からか)等々。それにもう一つ重要なのはトイレが近くなったことだ。 昨日も帰る途中で我慢ができなくなってきた(小)。移動する前から兆候はあったのでトイレに行っておけばよいのに、面倒くさがり屋の私はそう言う大事なことを後回しにするのである。コンビニが途中にあれば良いのだが、しばらく(歩いて10分くらい)はない。立ち○○○をしようと思うが、人にかくれて出来る場所もない。それに教師が立ち○○○をすると大変なことになる。 昨日はなんとか我慢してセーフ。これからは計画的にトイレに行くことにしよう。 さてしょうもないナゾナゾ 教師が立ち○○○をするとどんなことになるでしょう。 続き▽ |
2007,02,18, Sunday
悔しいのだ
今日は、東京都区内ではじめて市民参加のマラソン大会が行われる。
東京マラソン2007である。30000人が参加すると言う。 実はこの大会に私はエントリーしたのだが、抽選で落ちてしまったのだ。 悔しいから、今から弘前市内を走ってくることにする。 |
2007,02,18, Sunday
「空やん」と「振ると面食らう」
お客の入りが悪いと「空やん!」と言って機嫌を損ねた指揮者。あまりにもテンポがめちゃくちゃでこの人が「振ると面食らう」と言われた指揮者・・・。そのものずばりの本が出た。
中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書・840円) この二人の巨匠、比較されることも多いのだが(本ブログ2006年12月3日参照)、どちらも共通に取りざたされるのが、戦時におけるナチスとの関係である。。独裁者、権力者は音楽を利用しようとするだけでなく、音楽家も利用する。優れた音楽家ほどそうだ。 この二人がナチスに利用されたのは仕方がない。ただし、その距離感は微妙に違う。フルトヴェングラーはヒットラーを嫌い距離を置きつつもしっかりナチスに取り込まれて行った。カラヤンはナチスの党員であったが、ヒットラーには嫌われていた。フルトヴェングラーは距離を置いていたことで、カラヤンは嫌われていたことで、戦後も責任を追及されず巨匠として活躍する。しかし一方でフルトヴェングラーは策略をめぐらしてカラヤンの台頭を阻もうする。それに対してもはカラヤンも必死で抵抗する。そのためにはナチスの力も利用する。 非常事態の中で、音楽家はどう生きていくのか。考えさせられる本である。 |
2007,02,16, Friday
渇すれども盗泉の水は飲まず
大手のインターネットショップを通して注文していた古本(洋書)がアメリカからやっと届いた。・・と思ったら、この本には図書館(アメリカのある地方都市の市立図書館)のスタンプがあり最後のページに図書カードのポケットがあり図書カードも入っていて、背表紙には分類のラベルまである。おまけに、その市はアメリカの中でも私が行ったことのある数少ない市の一つなのだ(^^;
こんな本はいらん! インターネットショップは仲介をするだけだから、ここに言っても仕方ない。直接アメリカ側と交渉をしなければならない。返品して代金を取り返したいが、英語でメールをやりとりするのが面倒だ。直接図書館に連絡したほうがよいのか。 だれか、こう言う場合の対処の方法を教えてください。 できればメールの文例なども添えて。 法的な責任についても教えてください。 |