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久しぶりに・・・
旅行から帰って、はじめて体重計にのった。

ひぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!

| 日常 | 08:27 AM | comments (2) |
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神様、仏様・・・
3月7日にこのブログで稲尾和久氏のことを書いた。
朝のニュースで訃報。悲しい。

| スポーツ | 04:27 PM | comments (0) |
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実践報告
日本音楽教育学会大会での研究発表で感じたこと。

最近は小、中、高等学校の先生が自分の授業実践を事例にした研究発表が増えている。これを「実践報告」と呼んでおくことにしよう(抵抗はあるが、他に言葉が見あたらない)。このような「実践報告」が増加していることはとても良いことである。これらの実践報告をどう評価すべきなのか。まだ、頭の中は整理されていないが、大会中に考えたことを忘れないうちに書いておく。

実践報告に対するフロアからの第一声のほとんどは、「とてもすばらしい実践でした」と言う評価である。今回も何度も聞いた。実践報告に対してこのような評価をくだすことは、厳密に言えば誤っている。理由は2つである。

(1)学会での実践報告は「実践報告」とは言っても、研究の成果の発表であって、実践の発表ではない。自分の実践を取り上げるにしても、それはたまたま「実践者」と「研究者」が同一人物であったに過ぎない。あくまでも研究者としての活動を評価すべきである。

(2)そもそも実践報告から、実践を評価することは不可能なのである。実践報告は「実践」そのものではない。つまり、自分の実践についての報告であっても、それは報告者の頭の中で再構成された実践なのである。

授業実践は、教師が何らかの意図を持って行うものだが、授業の結果には教師の意図が反映されるだけでなく、教師が意図しなかったことも大きく反映される。S氏はこれを「潜在的カリキュラム」と呼んでいた。「隠れたカリキュラム」と呼ばれることもある。一般的に実践者と研究者が同一人物である場合、そのような隠れたカリキュラムは実践報告には現れにくい。少なくとも実践を評価するならば、このような隠れたカリキュラムも含めてなされるべきである(「実践報告」とは別の研究手法が必要である)。

実践報告は実践そのものではない。それは、結局のところはその自分の実践を素材にした「実践について思想」の報告である(たとえ事実だけを取り出して記述したように見えても、その事実を取り出したこと自体が思想の表明でもある)。したがって、実践研究の評価は、その思想がすぐれたものであるどうか、つまり他の実践を変革するような力があるかどうかについてなされるべきである。

もちろんすぐれた思想を発表をしている発表者はすぐれた実践もしているだろうと推測することはできる(そうだろうと期待したい)。逆にあきらかに、この発表者の授業はつまらないだろうと推測できるものもある(例えば、発表の仕方のつまらない人の授業はきっとつまらないはずだと推測する)。しかし、あくまでも推測である。推測で評価してはいけない。(大学に所属する研究者は、このような意味では私も含めて概して傲慢である。禁欲しなければならない)。

一方で、「実践報告は実践の事実の報告なのだから、評価をしていけない」という意見もあるそうだ。もちろん実践報告から「実践」を評価することはできないし、してはいけない。しかし、その実践を通して表明されている「実践についての思想」は当然評価できるはずである。もし「実践報告を評価してはいけない」とすれば、学会誌に投稿されてきた実践報告はすべて掲載しなければならなくなる。
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とは言うものの、やっぱり自分が発表しないのに大会に参加してもつまらない。
前会長のM氏は、大会では必ず研究発表してきたと懇親会のあいさつで述べられていた。これは見習わなくっちゃ。

| 教育+音楽 | 04:04 AM | comments (0) |
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初体験
昨日、名古屋から戻ったのだが、その途中で大問題が・・・

朝、中部国際空港に着くと、「青森は悪天候のため三沢、または仙台に着陸することもあり」との表示があった。それでもそれに搭乗する以外にない。

そして青森では、大揺れしながら着陸を試みたようだが(恐かった!)視界不良でもう一度上昇。しばらく青森上空を旋回したあと、「三沢も受け入れ体制が整わない」と言うことで仙台に着陸。そこで、JALから青森までの交通費として12000円を受け取る。

そして、午後から予定していた授業等の件について大学に連絡。新幹線で八戸まで行きそれから在来線で弘前まで帰ろうとしたら、今度は青森県内はJRも不通と言われた。結局、盛岡からバスに乗ってやっとのことで弘前まで帰り着いた。

青森空港では悪天候で飛行機が引き返すことはよくあるらしいのだが、私は初体験。まあ、旅行が長くできて得したようでもあるが、もうこりごりである。


| 日常 | 03:37 AM | comments (2) |
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健康は幸せ?
昨日まで、所属している学会に出席していた。飛行機がなかったので、もう一泊して今から飛行機で弘前に戻る。今年は発表もなく、司会もなかったのでとても楽(?)だった。
全体的にとてもスムーズに進行していた。大会実行委員会、特に開催大学の関係者の皆さんに感謝!

と言うわけで、「感謝」と言っておいて書くのもどうかと思うのだが。
その大学の廊下に貼ってあったポスターである(見づらくて恐縮である)。



こういうものを堂々と掲示する(させる?)人の感覚とそれを見て笑う人の感覚。
どちらがまともなのだろうか。

私は、大笑いした。ただしよその大学だから大笑いですんでいる。
こんな大学の学生や教職員が幸せだとはとても思えない。

| 教育 | 04:16 AM | comments (4) |
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名古屋
3日目である。やせ細る思い!

一昨日、飛行機の中から撮った写真である。



穂高岳、右が槍ヶ岳だと思うのだが・・・・
間違っていたらごめんね。

| - | 06:52 AM | comments (0) |
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今日は・・・


今日は、名古屋。これから岐阜大学へ。

| 日常 | 06:08 AM | comments (0) |
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雑感
防衛省(庁)幹部が軍事商社に接待漬けになっていた? その宴会に大臣(長官)も出席していた? 会議に、軍事商社の幹部が出席していた? これでは、防衛の戦略、戦術が商社に操られていると言われても仕方がない。もっとも、《この部門はこれくらい汚れていたほうがいいのだ。これがまったくクリーンになったら恐ろしい》と言う人もある。

政権交代可能な二大政党制とは? 要するに、ほとんど違いのない政党が二つだけ存在することなのだな。そしていざとなれば、この二つはいつでもくっつくのだな。幻想を持った私がバカだった。小沢騒動でわかった。勉強になった。

ついでにわかったこと。参議院で自民党が敗北した頃から、読売新聞社説には「政策協議」「連立」と言う言葉が何度も出て来た。そうか、そう言うことだったのか。最近の論調を見るとほとんど「親米新聞」だな。そして、あのじいさん、そろそろ引退したほうが良いと思うのだが。

嫌なニュースがなぜこうも続くのか。殺人事件のニュースに何も驚かなくなった。自分の神経もどうも麻痺してきたようだ。美しい音楽でも聴くか。

いやな予感が当たった。中日ドラゴンズが負けたそうだ。落合嫌いのプロ野球OBは「それ見たことか」と手を叩いて喜んでだろう。そうだ、中日ドラゴンズで思い出した。今日は、名古屋だ。日本一セール、まだやっているだろうか。

| 日常 | 04:59 AM | comments (0) |
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音楽の授業時数
次の教育課程の方向を示す中央教育審議会教育課程部会の中間まとめが了承された。それによると、小・中学校の音楽の授業時間は現状維持となった。やれやれと言ったところであるが、安心してはいられない。

前回の改訂(2002年完全実施)では、総合的な学習の時間の新設や全時間数の削減によって、音楽の授業時間数は大幅に削減されたのだ。今回の改訂で全授業時間数は増加するが、それは、いわゆる国、社、算(数)、理、体(保体)、英にまわされた。これは相対的見れば削減である。少なくとも、前々回の改訂時にもどしそこを基準に、すべての教科の授業時間数について検討すべきではなかったのか。音楽や図工(美術)の時間数に関しては、検討したあともない。

| 教育+音楽 | 09:30 AM | comments (1) |
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かんちがい パート3
ある地方の情報誌にエッセイを頼まれた。
3月27・28日のこのブログの記事をアレンジして、何とか間に合わせた。
ああ、勘違い 

どの雑誌か忘れたが、ある雑誌に「浦島太郎」の歌のことが出ていた。
帰って見ればこいかに」を「恐い蟹」と思っていたという話である。
この手の勘違いは実はいくらでもある。
代表的なものを書き出してみる。

うさぎ追いし彼の山→うさぎ美味し
負われて見たのは→追われてみたのは
さぎり消ゆる港江の→さぎり消ゆる港への
秋の夕陽に照る・山紅葉→照る山・紅葉
流れ寄る椰子の実一つ→流れよる(「流れている」の方言)
しゃぼん玉飛んだ屋根まで飛んだ→(屋根も飛んで行ってしまった)
母さんが夜なべをして→母さんが夜鍋をして


このような勘違いが生まれる理由ははっきりしている。まず、学校の音楽の授業で歌詞の意味についてきちんと指導することが少ないからである。学習指導要領には一応、どの学年にも「歌詞の表す情景や気持ちを想像して」と記されているが、実際の指導はおざなりになっているのではないだろうか。ただし、それだけではない。歌詞上の理由や音楽的な理由もある。
歌詞上の理由としては、学校で歌われている歌、特に文部省唱歌や日本歌曲の歌詞が文語で書かれていることが挙げられる。例えば「うさぎおいし」からは、現在の子どもなら「うさぎおいしい」と想像するのも当然である。
音楽上の理由としては、旋律が歌詞と合っていないことなどが挙げられる。「照る山紅葉」が「照る山」に四拍子の一小節内の前半の二拍が、「紅葉」に後半の二拍が使われれば、「照る・山紅葉」とは聞こえない。
ただ、私はこのような勘違いに目くじらを立てているわけではない。勘違いして歌っている時には、何となく違和感を持って歌っているはずだ。どこか、つじつまがあわないもどかしさがある。だから、それが勘違いと分かった時には快感が走る。一度は勘違いして見るのも楽しいことである。
 
一方、次のような笑える勘違いもある。

思い込んだら試練の道を→重いコンダラ

「巨人の星」(懐かしい)の飛雄馬がローラーを引いている場面が、この歌とともに映し出されるので、ローラーのことを「コンダラ」と思った少年がたくさんいるという話である。ただ、少し話ができすぎている。
笑いごとではすまされない勘違いもある。

さざれ石のいわおとなりて→岩音鳴りて

実際に学校でこう指導した先生がいるらしい。その先生の行く末が心配である。笑い話ですませられればいいのだが。
次のような、意図的に勘違いをねらった危険な歌もある。(つボイノリオ作詞「金太の大冒険」)

金太負けるな、金太負けるな、金太負けるな→??????

格調高いのが次の歌。勘違いではなく、「過ぎ」と「杉」をかけている。私はなぜか、この部分で涙が止まらなくなる。

いつしか年もすぎ(過ぎ・杉)の戸を
あけてぞ今朝は別れゆく


| 音楽 | 02:30 AM | comments (6) |
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